こんにちは。心機一転頑張ります。

今回からは、RADWIMPSというアーティストさんの歌詞を精読してみたいと思います。その中で、作詞を手がける野田洋次郎氏の人間性のようなものにアプローチしていけたらいいなぁと考えています。

この論考ではあくまでもアプローチの手法のひとつを紹介するだけなので、それが「正しい」のかどうかということは議論の対象ではなく、そもそも正誤の如何なんて重要ではないと考えています。理由はまた最後の方で述べますね。作品が、作者の自己満足の枠内に収まらずに世に出されたということにどういう意味があるか、みたいな部分を考えていければ、と思います。


第1回は、『最大公約数』という歌の歌詞を取り上げます。
(歌詞はhttp://www.utamap.com/showkasi.php?surl=B13556参照でお願いします。)

何を与えるでもなく 無理に寄りそうわけでもなく
つまりは探しにいこう ふたりの最大公約数を

<数値化される恋愛>
最大公約数とは、「0 ではない二つの整数の共通の約数のうち最大のもの」を指します。こういった数学(算数)の概念を人間関係、ひいては恋愛の文脈に適用したのが、この『最大公約数』という詞です。

まず詞をざっくりと眺めてみると、「最大公約数」という言葉で示されるのは、「ふたりが同じ考えを持つ必要はないよね」という、とてもありきたりな結論であることに気付きます。一方の嗜好や趣向を押し付けることなく、ふたりが似た感情を共有しながら時間を過ごせればいいね、という理想を述べた詞だと言えます。

<最大公約数を探すために>
ところが、そんな理想論が実際にうまくいくとは限りません。私たちが現実の世界で「公約数」というものをどのように捉えているかをちょっと考えるだけでわかりますよね!

僕は僕で君は君 その間には無限に あるはずだよ 二人だけの公約数


単なる比喩に揚げ足をとっているわけじゃないんですが、「公約数」は無限にありません。その中で「最大」の「公約数」を見つけるという試みは、恋愛におけるふたりの間の距離を調整する作業の比喩として相応しいのですが、この次のフレーズで、ちょっと絶望してしまうんですよね。

君が8なら 僕は2になる  僕が10なら 君は5になる


これ、個人的には大好きなフレーズなんですが、どう考えてもおかしいですよね。
まず、「公約数」の定義に反します。
そして、「公約数って何?」というような人々でさえも気付く、重大な「ミス」がありますよね。



<「君が8なら」なぜ僕は4になってあげられない?>
僕自身は、この部分こそが『最大公約数』という詞の醍醐味だと思うんです。野田洋次郎はおそらく、狙ってこれ書いてるはずですから。

まず、「公約数」の定義に反するという問題から詳しく書いていきましょう。そもそもふたりの「最大公約数」を定義するためには、ふたりに数字が与えられていることが必要です。「君が111で 僕は148なら 最大公約数は37」となるのが正しいわけですよね。
じゃあ、「君が9で 僕が16」ならどうしましょうか?
さらに、「君が7で 僕が11」なら?

『最大公約数』という4分程度の尺の曲では、こういった疑問の答えを全て網羅するにはあまりにも短すぎたのです。そこで野田洋次郎は、せめてもの手がかりとしてこのフレーズを考え出したのではないかなと思うんです。そう考えたら、彼って天才だなぁとか思いません?(笑)

次回に続く。