『群青』が解体する日本 11

さっそく2010年度の誓いが破られてしまいました。
ちょっと駆け足で進めていきます。


前回までで、『群青の空を越えて』というゲームの、3人のヒロインの概略を説明しました。そしてそれぞれのヒロインのストーリーに内包される、「だれのための戦争なのか」という問題について触れたところでした。


ところが、この3人のルートにはある共通点があります。
「自分が選んだヒロインは、戦争では死なない」という前提のもとに物語が展開しているという点です。
それもそのはず、主人公が恋した相手が死んでしまっては、(それはそれで悲恋になるのですが、)「相手」あっての恋愛が成立しません。

「戦争」という設定によって、「自分が選んだヒロインが死なない」という枠をぶち壊すために用意されたシナリオが、残り二人の女性のルートです。


戦争ジャーナリストと、平和活動家というふたりのヒロインがさらに登場することで、この「戦争」に対する視野も広がることになります。


そもそも、プレイヤーからしてみれば、この「戦争」はディスプレイ越しに起こる虚構であり、その意味では痛くも痒くもありません。しかし物語を生きる登場人物たちは、常に死の恐怖におびえているはずです。この2シナリオは、こうした「戦時における死の恐怖」をまざまざと見せ付けます。


その証拠に、この2ルートでは戦争が終わらないのです。
彼女たちは、それぞれ自分なりの方法で戦争を止めにいこうと活動を始めるのですが、その活動前、つまり「これから戦場に行って来るね」的な場面で終わりを迎えるルートなのです。
これは、前述した3人のヒロインが、「戦争で生き残れてよかったね」的な場面で終わることとは対照的です。

そして、前述した3人のヒロインが戦闘員であることと、この戦争ジャーナリストと平和活動家が「非戦闘員」であることも重要な設定の違いです。
非戦闘員と密に交流する主人公は、かつては生じえなかった、戦時に人を殺すことへの迷いに苦しみます。この点について次回、少し補足してみます。