ドゥルーズ・ラーメンズ 要旨

このエントリは、ラーメンズという二人組のコント集団の作品を、「時間」「反復」「差異」「異化」といった文芸批評ワードを利用しながら論じるものです。具体的なコントを俎上に上げながら、それがいかにして読めるか/観られるかという解釈や読解の可能性を示唆できれば、と考えています。
ただここで話しておきたいのはその目的です。それはラーメンズのコントを格調高く論じたいからではなく、そろそろ「お笑い・コント」が演劇論の下位概念、あるいは独立概念として論じられてよいのではないかという筆者自身の思いを表現するためなのです。「お笑い」という特殊な演劇がなぜ生じ得るか、落語や講談の延長では語れないと思うんです。

ラーメンズの一番の有名作だと思われる「日本語学校」シリーズ(チバシガサガッ!ってやつ)は、講師役の小林賢太郎と、生徒役の片桐仁の掛け合いから生まれるコントです。もともと彼らの役を決定づけているのは、「小林が立ち、片桐が座っている」あるいは「小林が何やら出席らしいものを取り、片桐がそれに応じて返事をする」という危うげな約束ごとに過ぎず、観客はそれを何らかの形で受け取り、設定を読みとります。基本的な約束ごとですが、演劇・舞台と共通のものでありながら、別種のコードも働いているように思えます。そして、講師が発したセリフを生徒が「反復」するという構造を持ちながらも、時に生徒がそのルールを破り、そこから「笑い」が生まれることにもなります。

あるいは先述の「反復」は、ラーメンズのコントの中で重要な意味を有しています。反復していた言葉がいつのまにか別の言葉に変わるスピード感が心を打つ「モーフィング(弱点都市大会)」というコントは、「反復」が言葉のうえで裏切られることでコントが展開します。こうした問題を考える上で、ドゥルーズの『差異と反復』は、やはり、どうしても避けることのできない著作になるようです。

あるいは、もはや「お笑い」ではないとしか言えない「銀河鉄道の夜のような夜」というコントでは、コント自体が「反復」されることになります。同じコントを「繰り返す」。これはラーメンズがかなり意識的に取り入れている手法で、「条例」「風と桶に関するいくつかの考察」など、パターンを変えながら踏襲されています。

さらに、「声」の問題も重要なトピックです。「バースデイ」は、小林も片桐も、会場の音響から流れて来る自分の声の録音に口パクで合わせてコントをします。彼らがなぜ声の多重性を彷彿とさせるような演出をするのかは、作品の内容と深い関わりがあるようです。また「後藤を待ちながら」というコントは、(もうタイトルからし不条理演劇の名手ベケットの援用なのですが、)youtubeのコメントの中で小林の語りとベケット作品の「わたしじゃない(Not I)」との類似性を指摘されるなど、旧来の演劇との接合面が顕著に表れています。彼らが演劇史に詳しいのかどうかはさておき、舞台論・演劇論を念頭に置いたうえで彼らのコントを議論する必要がありそうです。

コントにおける小道具の問題、コント同士のかかわり合いの問題(間テクスト性)など、まだまだ論点はあるように思いますが、とりあえず上記のトピックを具体的に論じていきたいと思います。
あと、お断りしておきますが、「お笑い」に関してはびっくりするほど知りません。好きなお笑い芸人は鉄拳ですのでw、あんまM−1的な芸人については触れられないかもしれません。が、「お笑い」の周縁に位置するはずのラーメンズについて語ることが、「お笑い」の一側面を明るく照らし出すような気がして、ならないのです。

ハチワンダイバー』というマンガを読んでいて、ページとページをまたぐような大ゴマが多いような気がする、という印象をもったのがこの記事を書いたそもそものきっかけです。いくつかのマンガを参照しながら、こうしたコマが視線誘導やストーリーの中でどのように機能しているのかを、述べていこうかなと思います。


そもそも、ここで問題にしたいと思っているコマはどのようなものかというと、こんなタイプです。

ハチワンダイバー』19巻、200−201頁

いわゆる見開き2頁をすべてつかったような大ゴマは、『のらくろ』シリーズや『汽車旅行』、つまり戦前の漫画においても使用例を確認することができます。今回はそうではなく、「ページをまたいでいるのにもかかわらず、見開き2ページを全て使っていないコマ」について考えてみたいと思うのです。


なぜこのコマが特殊なのかというと、マンガ内にこのコマが出てきた途端、「多くのマンガに適応される視線の運び方」が突き崩されることになるからです。

図解してみます。
つまり、普通にマンガを読むときは、
「右上から左下へ」という視線の動きが多用されることになります。
1ページを右上から左下に読み、次のページの右上に視線を移す。
見開きの大ゴマであっても、右上から左下へ、という視線の動き方に大きな違いはありません。

ところが、『ハチワンダイバー』のような横長のコマが出現した瞬間、「右上から左上へ」という視線が加わります。
さらに、普段は意識していなかった「左上から右下へ」という視線の動きが強調され、読者は視線を「逆Z型(S字型)」に動かすことになります。


なぜ、このような地面に平行な視線誘導が要請されるようになったのか?
もちろん、マンガの図像で表現するものの性質上、横長にならざるを得なかったコマもあると思います。たとえば、以下の例。


『賭博堕天録 カイジ』5巻


カイジの17歩麻雀の回では、こうしたページをまたぐコマが数えきれないほど存在します。麻雀の配牌という横長に並ばざるをえないものを表現する際に、こうした横長のコマが要請されたという考えは、決して邪推ではないと思うのです。


ところが、『カイジ』作品は別に麻雀だから横長のコマを採用したわけではないようなのです。その例証として、カイジ第一話のタイトルページを引用しておきます。


『賭博黙示録 カイジ』1巻、6−7頁


第一部ではタイトル頁にこの形式が踏襲されていて、完全に作者の手癖と化しているような感があります。
実際に、カイジ以前に書かれた『天』からすでに、この手法はすでに採用されていたようです。
だからこそ、この視線誘導がもたらす効果を、作品内の要素と作品外の要素に分けて考えなければならないように感じているのです。


本のノドに書かれる印刷技術との関わりや、視線を激しく動かすことによるスリル感、ということも考えつつ、
また機会があれば論じたいと思います。

メタボリズム都市とドラクエ

六本木の森美術館で開催されている、メタボリズムの未来都市展に関して。

平日昼だというのに、森美術館には子どもたちがたくさん。
メタボリズム展は、ドラクエ展と抱き合わせで開催されており、何らかの理由で学校が休みになっている少年たちが、ドラクエ展に詰めかけているのでした。


1960年代以降のメタボリストたちは、「生命体」としての建築物を模索しました。
都市や中に住む人々が、有機的に関わりを持ち広がっていく建築物とでも言えるでしょうか。

メタボリストたちのつくる建築物模型は、まさにSFでイメージされる未来都市そのもの。
中でも、東京湾上に都市をつくるというプロジェクト。
このプロジェクトは、都市を放射状に広げるのではなく、都市を直線的に延びていくものとして構想したものでした。
今の東京は、渋谷・新宿・池袋・秋葉原を起点とした放射状都市です。
この構想が実現していれば、現在の東京は満員電車とは無縁の、少し違ったものになっていたのかもしれません。


何よりも私が特筆すべきだと感じたのは、
これがドラゴンクエスト展と同時に開催されているという事実です。もちろん、偶然に寄与する部分が大きいと思うのですが。

私が中学生のころ、弟と「マイホームドリーム」という家の間取りを作るゲームを使い、
迷路を作りあって相手に解かせるという遊びをしていました。
作った間取りが、すぐに3Dとなって現れるこのゲームは、私たちの空間認識を大いに刺激したのだと思います。

メタボリズム展では、3D映像や模型を用いながら、建築家が構想した/実現したアイデアが三次元的によくわかるようにキュレーションされています。
模型を触れないのが仕方ないこととはいえ残念なのですが、
ドラクエ展に来た子どもたちがついでにメタボリズム展もさくっと見て、彼らの空間認識が刺激されることになっていたのだとしたら、ドラクエの2次元と建築の3次元という、なんとも見事な抱き合わせだと感じずにはいられません。

大阪万博との関係など、建築の知識を有する人にとっても見ごたえのある展示なのではないかな、と思います! みなさまぜひ!
メタボリズム展は1月まで、ドラクエ展は12月初頭までです。

まず、この文章は2011年4月に学習院大学で行われた講義の概要をまとめたものであることを断っておきます。僕の意見はほとんどありません。あえて誰の意見かわからないように表記してありますが、以下のほとんどが夏目房之介氏とそのゼミに所属する院生の意見です。
ちょっと堅い文体で書いてある部分もありますが、よろしければどうぞ。

☆☆☆

という内容でまとめていたのですが、
ちゃんと掲載の許可を取ってから載せるべきだと思い至りました。
いまさら遅いのですが、まず許可を取ってきます。
関係者の皆さま、気分を害された方もいると思います。
本当に申し訳ありませんでした。

私自身、あまり好きでもないのになぜか面白いと感じられる「ONE PIECE」を読んでいろいろ思うところがあって、
ワンピースの構造分析がそこまで進んでいることを授業で知り、
半ば冷静さを欠いていたと思います。
研究者として作品に向き合うとはどういうことなのか、
もう一度よく考えなおしてから言葉を紡いでいきたいと思います。

『群青』が解体する日本 11

さっそく2010年度の誓いが破られてしまいました。
ちょっと駆け足で進めていきます。


前回までで、『群青の空を越えて』というゲームの、3人のヒロインの概略を説明しました。そしてそれぞれのヒロインのストーリーに内包される、「だれのための戦争なのか」という問題について触れたところでした。


ところが、この3人のルートにはある共通点があります。
「自分が選んだヒロインは、戦争では死なない」という前提のもとに物語が展開しているという点です。
それもそのはず、主人公が恋した相手が死んでしまっては、(それはそれで悲恋になるのですが、)「相手」あっての恋愛が成立しません。

「戦争」という設定によって、「自分が選んだヒロインが死なない」という枠をぶち壊すために用意されたシナリオが、残り二人の女性のルートです。


戦争ジャーナリストと、平和活動家というふたりのヒロインがさらに登場することで、この「戦争」に対する視野も広がることになります。


そもそも、プレイヤーからしてみれば、この「戦争」はディスプレイ越しに起こる虚構であり、その意味では痛くも痒くもありません。しかし物語を生きる登場人物たちは、常に死の恐怖におびえているはずです。この2シナリオは、こうした「戦時における死の恐怖」をまざまざと見せ付けます。


その証拠に、この2ルートでは戦争が終わらないのです。
彼女たちは、それぞれ自分なりの方法で戦争を止めにいこうと活動を始めるのですが、その活動前、つまり「これから戦場に行って来るね」的な場面で終わりを迎えるルートなのです。
これは、前述した3人のヒロインが、「戦争で生き残れてよかったね」的な場面で終わることとは対照的です。

そして、前述した3人のヒロインが戦闘員であることと、この戦争ジャーナリストと平和活動家が「非戦闘員」であることも重要な設定の違いです。
非戦闘員と密に交流する主人公は、かつては生じえなかった、戦時に人を殺すことへの迷いに苦しみます。この点について次回、少し補足してみます。

『群青』が解体する「日本」10


さてヒロイン3人目。いわゆる年上のお姉さんです。


このルートでは、戦争が思ったより早く終わってしまうのです。作品を通じて語られる背景に、日本国内の「戦争」がアメリカ大統領選と密接に関わっていることがあげられるのですが、ここでは、現職を再選させるために、関東を降伏させるという国際的な取引が行われることになります。

戦争が早く終わってしまうからこそ、このルートでは戦闘機で殺し合いをする機会が減っています。その代わり主人公は、戦闘機を撃墜してしまったことに対する良心の呵責に苦しむのでした。いよいよ、「人を殺す」ことがリアルに描かれるようになります。*1

あたりまえですが、戦闘機に乗り戦うというのは、哨戒飛行も含めて、誰かに殺される・誰かを殺す可能性のある行動です。*2その、「人を殺して当たり前」という戦争の前提を、少しずつ切り崩していくのがこのヒロイン3人目のルートです。

シューティングゲームならいざ知らず、この物語で描かれているのは「戦争」のもう少しグロテスクな部分です。では、どうして「戦争」では相手を殺してしまうのでしょうか。


世界がもし100人の村だったら』を監修したことでも有名なダグラス・ラミスは、『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』などの書物で、20世紀に国家(軍隊)によって殺された2億人の犠牲者のうち、1億3000万人は自国民によって殺害されているというデータを示しています。この数字から何を読み取れるかは一概には言えませんが、戦争の中では、「敵」だから殺すという論理は必ずしも通用しないのではないかと感じてしまいます。

この『群青の空を越えて』も、同じ「民族」である日本人が戦争でお互いを殺しあう状況が描かれているのですが、こういう戦争はそう遠くない過去の中に存在します。姜尚中森達也が戦争の場を訪ねて対談をおこなった『戦争の世紀を超えて』(集英社、2010年)の中にある記述から、こうした同民族同士の殺し合いの典型ともいえる朝鮮戦争の問題を抜き出してみたいと思います。

姜は、同一民族が殺し合いを展開した朝鮮戦争の前提について言及し、それを森が以下のように要約しています。

同一民族内のルサンチマン的な衝動が、日本の植民地支配時代を通じて醸成されて、一九四九年を迎えたときには飽和状態になっていた(前掲書248頁)

本来は植民地支配をおこなった日本に対して向けられるはずの憎悪が、植民地支配の末端の権力を担った同族の地主層に向けられてしまった。同族がすべて被害をこうむったわけではなく、「支配される側」を一様に物語ることはできないのだ、ということを意味しています。

以上の記述における、

  1. 「戦争において『敵・味方』という二分法が通用しない可能性」
  2. 「『味方』を自己意識の中で二分することでルサンチマンが生じる可能性」

というふたつの問題は、この論考の後半で整理して述べたいと思うのですが、とりあえずここで言えるのは、こうした発想はすべて、戦争が終わった後に先の事件を振り返る「後知恵」であるということです。その「後知恵」が使えない当事者たち、つまり『群青の空を越えて』で描かれる人物たちは、問題を考えることを先送りし、思考停止(=「戦争に参加した理由はわからない」)に陥ってしまう、という構図になっています。
次回はその具体的な場面を考察したあとで、また別のルートからこの作品を捉えてみたいと思います。

ああ、なんかカタイ話で疲れてしまいますねw

*1:というのも、ここまでは「人に殺される」ことがリアルに描かれるにとどまっていました。GCI(地上要撃管制)で戦闘機の点が消滅したり、地上戦で内臓が破裂した死体の描写がなされたりするのは、すべて「自分」とは関係のない「他者の死」です。

*2:恐ろしいことですが、200人以上のパイロットが勤務するアメリカのクリーチ基地では、イラクアフガニスタン上空を飛ぶ無人偵察機攻撃機を衛星システムで操作しています。戦闘機さえもコンテナの中で操作できる世界では、もはや「人を殺す」というリアリズムが希薄になっていることは想像に難くありません。

『群青』が解体する「日本」9


続き。この水木若菜という同級生と恋仲になるルートでは、「自分のため」に戦争に参加する姿に焦点が当たっている、という話でした。それは戦争という極限状態を戦い抜くために必要な「意志」とでも言い換えられるのかもしれません。戦争のきっかけ自体はプロパガンダ的なものであっても、ひとりひとりの人間が自らの考えで銃を取り、「戦い」という選択肢を選んでいるのだという個々の主張を表している、と考えることができます。

ところがもうひとつ、このルートには特筆しておくべき内容があります。この若菜ルートにおいては、「戦争」という特殊な状態を、「日常」の中で捉えようとするセリフがいくつか見受けられます。

たとえば、主人公は、若菜とお付き合いする前に一度、彼女の告白を断っています。その断り文句が以下。

心配をしてもらえる立場になったら、戦えなくなるのではないか。俺は思ったより弱いから、恐怖から逃れるために、やさしさにおぼれる。だから離れたい。


何も言い返せない少女。彼女は友人にグチをこぼします。

戦争を理由に避けられたのが悔しい。


戦争という特殊な状況を利用して断るのではなく、「ちゃんと」断ってほしいというのです。極限状態だからこそ恋心が芽生える、というと吊橋効果を想起させますが、極限状態だからこそ、その極限を根拠に人間関係を規定されるのが気に入らないようです。


また、こんな彼女のことばからも、「戦争」という特殊な状態を「特殊」とみなさない態度がうかがえます。

恋人としてつきあって、絶対に死なない人なんてどこかにいるの?

平時に暮らすわれわれも、交通事故や不慮の事故で恋人を失うかもしれない。「戦争」と「日常」を峻別することの無意味さが手に取るように感じられますが、となりの町との「戦争」を描いた『となり町戦争』という映画で語られる、「全世界で全く戦争が起こらなかった日を足し合わせても1年に満たない」というエピソードも、われわれが戦争を特殊に捉えることに疑義をさしはさんでいるようです。


このルートには、「自分のために戦う」ということをめぐってさらに重要な内容が含まれています。つまり、じゃあ「自分」って一体だれのことまでをさすのか。「自国」なのか、「自民族」なのか、はたまた…という問題もあるのですが、それはさておき、もうひとり、渋沢美樹というヒロインの「戦争」についても見ておきましょう。彼女は、主人公の上官にあたる、「戦争」のはじまりから戦いぬいてきた優秀なパイロットです。このルートでは、「戦う理由」は、自分のためでも他人でもなく、「わからない」のだ、というふざけた内容が語られているのですが、詳しくは次回に。