『群青』が解体する「日本」8

次は水木若菜というキャラの「戦争」について。どう贔屓目に見ても、彼女がこの作品におけるメインヒロインです。
前回の書き方からもう予想がつくと思いますが、このルートでは「自分のために戦う」ことが強調されています。自分のために戦う、って一体どういうことなのでしょうか。


戦争も佳境という中で、パイロットたちが必死に戦う一方で、テレビの中の芸人が昨今の「戦争」をネタに漫才をしている場面があります。自嘲気味に、「あんな連中を守るために命はかけられない」とパイロットたちは洩らします。

このルートではもちろん、水木若菜というヒロインと恋仲になるのですが、彼はしきりに「好きな女のために死ねない/命はかけられない」ということを口癖のように言い、確かにそれを実践しています。
「誰かのために命はかけられない」と作中でも語られますが、これはつまり、「誰かの無条件な正義のため」に戦争を戦うわけではないという意志の現れです。作中のことばを引くなら、「だれにもゆずれない大事なもの」のため、「私利私欲」のために戦うのだといいます。
私利私欲といっても、自らの経済的利益を求めて戦争をおこなうわけではありません。経済的利益を求める人々はたいてい、自らの手を汚しません。これは、自らの手を汚して人を殺す理由は何なのか、というグロテスクな問いなのです。

人間の欲望が渦巻く戦争なら、勝者の論理も敗者の論理も、戦後に伝えられることになります。ところが、この戦争の勝者は、「戦争」を、ただの「反乱」だと定義づけました。もともとは同じ民族である日本人が争った歴史を、恨みとして残さないために、勝者はこの「争い」を歴史上の出来事から葬り去ったのです。それは、「警官が死んでも、学生の逮捕にこだわった70年安保と同構図」であったと作中では表現されています。
だからこそ多くの学生が軽罪となり、主人公を含む一部の人間のみが禁固刑を言い渡されます。その禁固刑があけた後、彼はヒロインと共に、この争いを「戦争」として捉え、一人ひとりが自分の意志で戦った「戦争」の記憶を後世に伝えていくことを生きがいとしていくと誓います。それは、「戦争」というものの持つ個人性を広く世間に知らせていきたいという彼の思いの発露なのでしょう。

「女のためには死ねない」という主人公の思いとは裏腹に、ヒロインは「一緒に死んであげる」という決意を口にしています。ところがこの言葉も、戦時中と戦後では意味が大きく変わってきます。刹那の死を重要視するか、死までのプロセス(生きている間は「戦争」の記憶を伝えていく)を重視するかという違いは、このルートを語る上での重要なキーワードだと思います。

「君のためには死ねない」という状況が果たして恋愛なのかどうか。
次は、そのことについて軽く触れてから、もうひとりのヒロインの「戦争」について述べていきます。

『群青』が解体する「日本」7

もう7回目になるのに、アブストラクトの5項目のうち、ひとつも達成されてなくて笑ってしまった。とりあえず、「なぜ『戦争』に参加するのか」について説明していきますね。

恋愛ゲームである以上、どうしても男女の関わりは避けられないわけですが、論理として最もわかりやすいものは、妹キャラの日下部加奈子の「戦う理由」です。

お兄ちゃんを守るため。


加奈子は実の兄を戦争で亡くし、その面影の残る主人公を兄代わりとし、愛を育むわけですが、加奈子ルートにおいては、彼女も主人公も、愛する恋人を守るために戦争に参加します。もちろん実際に盾になったりするのではなく、主人公は戦闘機に乗り空で、加奈子は整備・地上部隊としてそれぞれの役割を全うするのですが。
このルートではやたら、「誰かのために戦う」ことが強調されています。

友達を置いて逃げ出せないさ。

今のセリフ、クー[引用者注:戦死した友人の愛称]の墓前で言ってみろ!

極めつけは、最後、戦地で離れ離れになった主人公と加奈子が、戦後に出会うというシーンで終わるのですが、そこでの語り手は以下のように二人を捉えています。

少なくとも、皆が命がけで戦い続けた意味は、きっとあったんだ。
……そうでなければ、浮かばれない。

戦争の大義が、見事に恋愛へと還元されています。非難するわけではないのですが、セカイ系と呼ばれるもののお手本がここに出来上がっています。
しかし、これも作品全体テーマへの伏線なのでしょう。このルートの最初の方で、物語の鍵を握る、主人公たちの周りでカメラを抱え、相談役にも回る戦争ジャーナリストが痛烈な批判をおこなっています。

大切な誰かを守るために……そうして戦争は正当化されていくのよね。


「戦う理由」のレベルが深化するなんてことばを使ってしまうと、戦争のリアリズムを無視することになってしまうのですが、非現実のゲームを利用して、「戦争」を考えようとする試み自体にいささか無理があるので、この書き方で許してください。
「戦争」ということばを聞くだけで思考停止して、その「戦争」に関わる個別的な事情がすっとばされてしまうことは現実では日常茶飯事です。だとしたら、その「戦争」についての考えを深めるためには、実際の戦地に行くか、実際に戦争が行われている文学作品から手がかりを得るかぐらいしか方法がないと思います。

とにかく、加奈子ルートでの「戦争」は、みんながみんな「誰かのために」戦います。戦争を指揮する司令部の描写はひたすら隠され、ただバタバタと死んでいく学生の姿だけがクローズアップされます。絵に描いたような泥沼戦争です。負け戦です。だから、こんなセリフさえも飛び出します。

死に後から理由をつけて、美化するのは残された人間が負い目に思っているからですよ。
それが真に正しいなら、それは無駄死にでいい。……もとから、どんな死にも意味はないのだから。


自らの戦いを正当化するために、「他人のため」という大義名分をふりかざすのです。それは美しい友情・愛情ですが、この作品ではそれを真に美しいものとして表現してはいません。
では、他のルートではどうなっているのでしょうか。

『群青』が解体する「日本」6

今回は、この作品が参照枠としている「学生闘争」について簡単に触れて、作品の世界観を理解する助けとしてみます。

そもそも、どうして実際の歴史を引っ張り出すことが作品理解に繋がるのか、という疑問をもたれてしまうこともあるのですが、だいたいある作品というのは、先行する事実や他の作品の影響を受けているものです。まして、この作品は綿密な時代考証を売りにしていることもあって、こんな台詞も飛び出します。個人的に好きな台詞。

一方的に先制攻撃されて、戦意の衰えた例など過去にない。滅亡した国家・民族はあるがね。もうちょっと歴史を勉強しなさい。


実際の戦略分析が過去の歴史を紐解くことで基礎付けられることを作品内で語っているのだから、歴史を考えてみることは有意義なことですよね。前置きはこれくらいにして。


そもそも、「学生闘争」とは、1965年の北爆以降泥沼化したベトナム戦争に対する反戦運動などを契機とし、先進諸国で活気付いたスチューデント・パワーの一環として始まりました。では、日本ではどうして学生による実力行使がおこなわれたのか。
一般には、閉塞感の鬱積した1960年代後半の日本の中で、貧富差の固定や退屈な授業、ベビーブームによる子どもの増加などに対して、「現代的不幸」を感じた大学生たちが多く存在していたことから説明されます。そしてそれはたいてい、「『近代的不幸』しか理解しえない前近代の大人たちには、戦争も飢餓も知らない若い世代が、理解不能な暴力行為に走っているか、甘えているとしか」捉えられなかったのです。*1


ただ、ちょっと考えればわかるのですが、この当時も大学生は多様だったはずです。例えば、東京大学駒場祭実行委員長だった川喜多喬は、同じ学生たちが佐藤栄作首相の訪米への反対デモをおこなったことに対し、次のように考えていました。

駒場祭委員会は、駒場祭期間中全学を管理する権限を保持している。・・・その駒祭委に一切無断で、彼らは二千余を持って[ママ]駒場に入り第一本館・九百番等を占拠したのだ。これは明らかに学生自治の原則をふみにじる行為といわねばならない。・・・われわれはもちろん一般的に学生の手による完全な学園封鎖・管理を否定するものではない。・・・しかしながら、これ[侵入した学生の発言]がクラス・サークルからの現実の運動に応じた方針を与える大衆運動破壊であると同時に我々は、駒場祭と訪米阻止闘争を対立させてはならない。(「東京大学新聞」1967年11月13日付)


その他、なかなか面白いのは、東京大学で篭城する学生たちに対して、『朝日ジャーナル』という雑誌がインタビューをしていて、なぜ篭城するのかという記者の質問に対する答えが面白い。例えば、

「われわれにはつっ走っても失うべきものはなにもない。いわゆるノンポリ・ラジカルといわれるわれわれにとっては、ひたすら思想の表現だったともいえる」(「朝日ジャーナル」1968年8月4日号)

のように、全てを書くことはできないのですが、とにかく篭城の目的が曖昧なんです。教官による学生の「全人格的支配」といった、大学に対する不満、共同体に対する不信があり、インテリ・知識人が陥っている疎外状況に対する憤りが、「ぼくら自身の変革とか進歩」と結びつき、運動の推進力となっていたのである、という説明が示すとおり、学生闘争は、しごくプライベートな目的をもっておこなわれた側面があるということです。

「大学はむなしきものである。現体制にはひずみが多い。世の中は狂っている――ただその一点だけではゲバルト学生も、一般学生も、原理運動の学生も、先例を受けた学生も一致する。対応の仕方は異なるが、そう信じきってうたがわない」(毎日新聞社会部編『ゲバ棒と青春』エール出版社、1969)

という共通点ばかりが、学生闘争を支える根本的な思想の柱だったのかもしれません。

では、この『群青の空を越えて』で描かれる「戦争」はどうなのか? 「戦争」を支える根本的な柱は、プライベートなものなのでしょうか。それを示すために、描かれる4種の戦争の結果を考えてみる必要があるわけです。
学生闘争や他の話を絡めながら、描かれている4つのエンディングにおける「戦争」を見ていきます。そこでようやく、それぞれの戦う理由がわかるのかもしれません。

*1:小熊英二『1968<上>』新曜社、2009、25頁

『群青』が解体する「日本」5

展開が遅いブログですが、今日こそ、「戦争」という題材を語る中で問題になる、「戦争という極限状態はなぜ生み出されているのか」ということについて触れていきます。外的な戦争要因もですが、それより内部が戦争に駆り立てられている理由に焦点を当てていきます。


まず、前提として確認しておきたいのは、男と女を切り裂く極限状態の設定として、「戦争」という題材はうってつけであるということです。戦争をおこなう「政府」や「国家」という大きな対立に飲み込まれ、愛し合う二人は別離や死別を経験する。「愛は障害があるほど燃える」とはよく言いますが、「戦争」がその障害として機能しているわけです。
実際に、戦争をモチーフに男女の恋愛を描く作品は枚挙に暇がありません。『新世紀エヴァンゲリオン』では、使徒と人間の「戦争」がひとりの少年の心模様(恋愛というよりは、欲望という方が正しいのですが)と密接にかかわり合い、『最終兵器彼女』は彼女のちせが兵器となって戦争を戦う姿が描かれ、新海誠の『ほしのこえ』は彼女が戦闘機(巨大ロボット)に乗って宇宙へ行ってしまい、銀河系を隔てた愛を紡いでゆき、『イリヤの空、UFOの夏』は、軍の秘密兵器パイロットであるイリヤが、世界の命運をかけた戦争に動員されています。それぞれに差異はあれど、「戦争モノ」というジャンルが確立されているのもまた事実です。*1
上記の作品は全て、意識的か無意識的かはさておき、戦争自体の原因が巧妙に隠されています。そもそもその対立/戦争が起こったのはなぜなのか、が突き詰められないまま、物語が終焉に向かっていきます。

ところが、『群青の空を越えて』は、いくつかのエンディングを迎えることにより、戦争自体の原因が少しずつ見えていく構成になっています。その足がかりとして、ひとりひとりの戦争参加の理由が語られていきます。最初に、物語前半の主人公の発言から。

親父の言い出した理屈で何人も死んでるのは事実なんだ。利用されたからって、それが言い訳になるわけもない。・・・それに戦争を終わらせるためには、誰かが、贖罪羊(スケープゴート)にならなきゃいけない。俺なりに、親父の始めた騒動のケリをつけなきゃいけないと思ったから。


「日本のために/戦争のために 自分が犠牲にならなきゃいけない」という言い回しは、どこかで聞いたことがあるような気がします。いつかの日本とそっくりですね。ところが、「近親者の始めた戦争を終らせなければいけない」という言い方には、少し別の含意があるような気がします。登場人物たちの中にあるのは、「戦争を終わらせるために」戦争をおこなっているのだという心づもりです。この点で、作品内には「お国のために死ぬ」という言説は排除されていると考えます。

また、作品では、作品内の「戦争」を70年安保との関連で説明しているところがいくつかあります。

――気付けば踊らされていた。七〇年安保の時と似たようなもんだ。

――それを言うなら、二次大戦だって一緒よ。(この戦争を始めた政治家・企業家たちは大義名分を振りかざし、けれど内心では関東の独立による経済的な利益を求めて学生たちを扇動し……そして自身は、情勢が危うくなると、さっさと国外に逃亡してしまった。そうして、残されたのは……愚鈍に理想を追うことしか知らない、学生ばかりだ。)


本当にそうなのでしょうか。70年安保を学生との絡みで出ているので、素直にスチューデント・パワーが爆発した1968年以降の動向を指していると考えると、70年安保とどこが共通していると捉えられているのでしょうか。
今更、1968年のことを考えるのは難しく、ひとつの歴史的事実に対する捉え方も個人によりさまざまです。とりあえず、とかく意見の大勢を語ることの多い当時の雑誌を参照しながら、70年安保と「戦争」の関係を簡単に整理してみます。では次回に。

*1:前島賢セカイ系とは何か』では、こうした作品をセカイ系の文脈で論じ、『エヴァンゲリオン』以降の戦争の描かれ方が大きく変化したと述べられています。

『群青』が解体する「日本」4

前回からのテーマである、国家とは何か、という問題。作品内に出てくることばを少しずつ拾いながら、深みに降りていきたいと思います。

そもそも、関東と関西の「内戦」にいたる発端として、主人公の父親が発表した論文が挙げられています。この辺りはゲームらしいトンデモ設定なのですが、とりあえず記しておきます。

主人公の父親の主張の骨子は、「国家という枠組みは不要」というものです。その根拠として、縄文時代の人々と弥生時代の人々のDNAの違いを挙げ、そもそも縄文人弥生人は同一民族ではなかった、だから現在の「日本人」も単一民族ではない。同じ民族であるという根拠のない連帯感が覆された今、「日本」という枠組みをベースにして政治・経済を語ることは片手落ちである、というものです。
この主張を利用して、金に目がくらんだ利権屋さんたちが、経済的利益を求めて扇動し、国家の独立と分裂を企図して暗躍した結果、関西と関東が分裂してしまった、というのがこの作品の設定になっています。

まず、主人公の父親の主張ですが、これを実際の歴史家の切り口から考えてみましょう。
ドイツ「国民」論の原型を作ったマイネッケ(Friedrich Meinecke)は、ヨーロッパの「国民Nation」概念には、文化や歴史などを共有する共同体であることに基づく「文化国民」と、ひとつの国家を共有し、その法・政治制度に従っている共同体であることに基づく「国家国民」の二つがあることを論じています。*1
このマイネッケに照らせば、主人公の父親の主張は、日本人の「文化国民」的な要素を否定する内容と考えられます。「文化国民」的な要素が否定されるからこそ、われわれは「日本人」というレッテルから疎外されるべきなのだ、という主張です。

同様に、作品終盤に興味深い発言が出てきますので、長いですが全文を引用してみます。

自分は何人か、という問いに、薩摩人・長州人と答えていたこの国で、はじめて日本人という概念を実感として持ち得たのは、坂本龍馬だろう。国家としての日本は、本質的にはこの時発生したと考えてよい。それ以前は、大和朝廷とそれに征服された植民地国家の連合体にすぎん。龍馬が天才だった所以は、土佐人としての自分と日本人としての自分、二つの価値観をごく自然に受け入れられたことだ。だが彼にとってはそうでも、他の凡人にとっては違った。自分は日本人なのかそれとも薩摩人なのか、主に帰属する世界が一つでなければ、安心できんのだ。だからこそ明治以降、日本というナショナリズムを盛り上げるために、政府は必死になった。


この文章の正誤は脇に置いておくとして、
坂本竜馬は、自分の帰属する2つの共同体の価値観の相違を、自然に受け止めることができた一方で、「凡人」は自分の帰属する共同体がひとつでなければ安心できない、という比較が行われています。これにより、多くの「凡人」が拠所とする「国家」が、政府の手によって作られたのだ、という含意もあるようです。
坂本竜馬がどのように「日本人」を捉えたのかはわかりませんが、坂本竜馬が、日本人の「文化国民」的要素/「国家国民」的要素のうちどちらを念頭においていたにせよ、のちの明治政府はこの両方を達成しようともくろんだことは間違いありません。*2
その結果、太平洋戦争においては、「お国のために死ぬ」「天皇のために死ぬ」のような言説がまかりとってしまったわけですが、この言説、『群青の空を越えて』ではほとんど使用されません。21世紀の「日本」での戦争は、なにやら別の理由がある、と言わんばかりです。

それでは遠回りしましたが、登場人物たちがどうして戦争に参加し、「国家」のために尽くすのか、それを少しずつ拾ってみます。続きは次回にて。

*1:マイネッケは、19世紀末〜20世紀にかけて活躍したドイツ人歴史家です。『世界市民主義と国民国家』に書かれている内容です。

*2:明治以降、「ナショナリズムを盛り上げるために」「必死になった政府」が、版籍奉還廃藩置県などの土地整理事業、国家宗教としての神道の整備、教育制度の普及などを通して中央集権国家を形成しようともくろんだことは日本史を紐解くまでもありません。

『群青』が解体する「日本」3

前回は、「日本」「関東」「関西」といった大きな枠でのこのゲームの概観をおこないましたが、
もう少しミクロな視点で、戦争の恐ろしさについて描写する部分もあります。

例えば、主人公であるエースパイロットは、新しく着任した女性パイロットに訓練をつけてもらいます。その女性パイロットは、飛行一種卒業生の唯一の五体満足者であるといいます。

彼女は、成績優秀の主人公に対して、厳しい体力トレーニングを課します。
戦闘機乗りに必要なのは、作戦がうまくいかないときに諦める知力なのではなく、
生に対する執念なのだということを伝えるために。

最後まで飛び続けられるパイロットが、よいパイロットなのよ。

「戦争」ということばを聞いて当たり前のように感じる(ことばではわかっているような気がする)絶望を、
作品内では丹念に群像劇化していきます。

たとえば、戦闘機の墜落(MIA:戦闘中行方不明)とともに消える管制塔の座標点。
制服を着る必要がなくても、「私服で軍事訓練に来る気にはなれない」と語るパイロット。
アラート待機するパイロットの、一番待機と二番待機の違い。(一番は戦闘機に乗りっぱなし、二番は少し余裕アリ)
空戦は示威行為であるがゆえに、五分五分の状況では始まらないという前線の実態。


「戦争」一般の社会常識が語られる一方で、
物語は少しずつ、戦争をめぐる個々人の問題をクローズアップしていきます。

ヒロインのひとりである日下部加奈子は、
兄をこの「国家」間戦争により失いました。
兄は将来を有望されたエースパイロットだったのですが、ほんの気の迷いで戦死、
妹は兄の死の理由を解き明かそうと、戦争に関わっていこうとするのでありました。


第二章のエピグラムでは、「国家とは何か」という問題に対し、
「国家とは社会自体の構造(ストラクチュア)」であると説明されています。

ではその構造を形作る構成員は、国家をどのように捉えているのか。
各ヒロインの「戦争への参加理由」に触れつつ、国家と個の問題を検討してみたいと思います。

『群青』が解体する「日本」2

ゲームの電源を入れると、物語は、普通の学校風景から始まります。お昼休み、人気のある食堂は混み、仕方ないからパンでも食べようか、といった友人とのやり取り。


そこに、突然警報が鳴り始めます。


「関西軍」からの核攻撃を想定した、訓練である、と。そしたら主人公は、グリベンという戦闘機のパイロットで、なんか英語ばっかり喋ってる。
プレイヤーにとっては、ただただポカーンとさせられるシーンの連続です。


まぁもちろんこれは、この作品の前提となる世界観が、現在の日本に照らして考えれば「非日常」であることを示す装置に他ならないのですが、ちょっとまあエロゲとは思えないですねw


何かよくわからないけれど、関東と関西がまっぷたつに分かれて戦争をしていることだけは読み取れて、そしてこのエピグラムが流れます。

国家という名の幻想の河を越えて、苦難の道へと歩み出さなければならない


このエピグラムのあと、いわゆる「日本」を取り巻く世界状況が明らかにされます。西日本を支援するのは北米で、関東自治共和政府を支援するのはEUで、そのどちらにも関わるイギリスはどうしてんだ、とか、そういう感じです。


まず、「国家」の枠組みとは一体何なんでしょう。それを、現在世界にある最小の国家であるシーランド公国などを例に考えてみましょう。

シーランド公国は、イギリスの南に浮かぶ島で(というか要塞)で、面積はバスケットボールコート1面分、人口は2008年で4人だそうです。気になる方はwikipediaなどでどうぞ。
イギリスの領海とシーランド公国の領海は重なっていないので、イギリス側の猛反対がありながらも、理論上は成立してしまった国家なのです。でもまぁ、こんな国家は誰も認めていないわけで、国際的な評価からいってしまえばこれは「国家」ではありません。


しかし、井上ひさしの小説『吉里吉里人』の中で独立した「吉里吉里国」は、一定の国際的な評価を受けてしまいました。1933年に成立したモンテビデオ条約に則り、「吉里吉里国」は台湾・ボツワナケベック州といった諸国家・諸地域との外交に成功しています。


我々は、「日本」が当たり前のようにひとつの連合体だと錯覚しています。政治は一律のものがおこなわれているような気がするし、スポーツでは「日本」の勝利に酔いしれる。
ところが実際は、関西人はどこにいっても方言を死守し、ちょっと東京を出るとマクドナルドの値段が変わり、お雑煮の味まで変わる。こうした「地域性の違い」を越えて、何となくつながっているような気がする「日本」って一体なんなんでしょうね。
それは、「日本」をひとつのものとして考えていると永遠にわかりません。かといって、その集団を全て個に分解し、セカイ系に陥ってしまうと、その個が集まったときにどのような作用が生まれるかを見逃してしまいます。現実世界においては、1をN回足したものはイコールNになるわけではないですし、1にNを掛けたものとイコールになるわけではありません。


そこで、日本を2つに分けた(ように最初は思える)この作品が、「国家」を考える上で手がかりとなってくるのです。方法論の話が長くなりましたが、続きは次回へ。