『群青』が解体する「日本」4

前回からのテーマである、国家とは何か、という問題。作品内に出てくることばを少しずつ拾いながら、深みに降りていきたいと思います。

そもそも、関東と関西の「内戦」にいたる発端として、主人公の父親が発表した論文が挙げられています。この辺りはゲームらしいトンデモ設定なのですが、とりあえず記しておきます。

主人公の父親の主張の骨子は、「国家という枠組みは不要」というものです。その根拠として、縄文時代の人々と弥生時代の人々のDNAの違いを挙げ、そもそも縄文人弥生人は同一民族ではなかった、だから現在の「日本人」も単一民族ではない。同じ民族であるという根拠のない連帯感が覆された今、「日本」という枠組みをベースにして政治・経済を語ることは片手落ちである、というものです。
この主張を利用して、金に目がくらんだ利権屋さんたちが、経済的利益を求めて扇動し、国家の独立と分裂を企図して暗躍した結果、関西と関東が分裂してしまった、というのがこの作品の設定になっています。

まず、主人公の父親の主張ですが、これを実際の歴史家の切り口から考えてみましょう。
ドイツ「国民」論の原型を作ったマイネッケ(Friedrich Meinecke)は、ヨーロッパの「国民Nation」概念には、文化や歴史などを共有する共同体であることに基づく「文化国民」と、ひとつの国家を共有し、その法・政治制度に従っている共同体であることに基づく「国家国民」の二つがあることを論じています。*1
このマイネッケに照らせば、主人公の父親の主張は、日本人の「文化国民」的な要素を否定する内容と考えられます。「文化国民」的な要素が否定されるからこそ、われわれは「日本人」というレッテルから疎外されるべきなのだ、という主張です。

同様に、作品終盤に興味深い発言が出てきますので、長いですが全文を引用してみます。

自分は何人か、という問いに、薩摩人・長州人と答えていたこの国で、はじめて日本人という概念を実感として持ち得たのは、坂本龍馬だろう。国家としての日本は、本質的にはこの時発生したと考えてよい。それ以前は、大和朝廷とそれに征服された植民地国家の連合体にすぎん。龍馬が天才だった所以は、土佐人としての自分と日本人としての自分、二つの価値観をごく自然に受け入れられたことだ。だが彼にとってはそうでも、他の凡人にとっては違った。自分は日本人なのかそれとも薩摩人なのか、主に帰属する世界が一つでなければ、安心できんのだ。だからこそ明治以降、日本というナショナリズムを盛り上げるために、政府は必死になった。


この文章の正誤は脇に置いておくとして、
坂本竜馬は、自分の帰属する2つの共同体の価値観の相違を、自然に受け止めることができた一方で、「凡人」は自分の帰属する共同体がひとつでなければ安心できない、という比較が行われています。これにより、多くの「凡人」が拠所とする「国家」が、政府の手によって作られたのだ、という含意もあるようです。
坂本竜馬がどのように「日本人」を捉えたのかはわかりませんが、坂本竜馬が、日本人の「文化国民」的要素/「国家国民」的要素のうちどちらを念頭においていたにせよ、のちの明治政府はこの両方を達成しようともくろんだことは間違いありません。*2
その結果、太平洋戦争においては、「お国のために死ぬ」「天皇のために死ぬ」のような言説がまかりとってしまったわけですが、この言説、『群青の空を越えて』ではほとんど使用されません。21世紀の「日本」での戦争は、なにやら別の理由がある、と言わんばかりです。

それでは遠回りしましたが、登場人物たちがどうして戦争に参加し、「国家」のために尽くすのか、それを少しずつ拾ってみます。続きは次回にて。

*1:マイネッケは、19世紀末〜20世紀にかけて活躍したドイツ人歴史家です。『世界市民主義と国民国家』に書かれている内容です。

*2:明治以降、「ナショナリズムを盛り上げるために」「必死になった政府」が、版籍奉還廃藩置県などの土地整理事業、国家宗教としての神道の整備、教育制度の普及などを通して中央集権国家を形成しようともくろんだことは日本史を紐解くまでもありません。