『群青』が解体する「日本」5

展開が遅いブログですが、今日こそ、「戦争」という題材を語る中で問題になる、「戦争という極限状態はなぜ生み出されているのか」ということについて触れていきます。外的な戦争要因もですが、それより内部が戦争に駆り立てられている理由に焦点を当てていきます。


まず、前提として確認しておきたいのは、男と女を切り裂く極限状態の設定として、「戦争」という題材はうってつけであるということです。戦争をおこなう「政府」や「国家」という大きな対立に飲み込まれ、愛し合う二人は別離や死別を経験する。「愛は障害があるほど燃える」とはよく言いますが、「戦争」がその障害として機能しているわけです。
実際に、戦争をモチーフに男女の恋愛を描く作品は枚挙に暇がありません。『新世紀エヴァンゲリオン』では、使徒と人間の「戦争」がひとりの少年の心模様(恋愛というよりは、欲望という方が正しいのですが)と密接にかかわり合い、『最終兵器彼女』は彼女のちせが兵器となって戦争を戦う姿が描かれ、新海誠の『ほしのこえ』は彼女が戦闘機(巨大ロボット)に乗って宇宙へ行ってしまい、銀河系を隔てた愛を紡いでゆき、『イリヤの空、UFOの夏』は、軍の秘密兵器パイロットであるイリヤが、世界の命運をかけた戦争に動員されています。それぞれに差異はあれど、「戦争モノ」というジャンルが確立されているのもまた事実です。*1
上記の作品は全て、意識的か無意識的かはさておき、戦争自体の原因が巧妙に隠されています。そもそもその対立/戦争が起こったのはなぜなのか、が突き詰められないまま、物語が終焉に向かっていきます。

ところが、『群青の空を越えて』は、いくつかのエンディングを迎えることにより、戦争自体の原因が少しずつ見えていく構成になっています。その足がかりとして、ひとりひとりの戦争参加の理由が語られていきます。最初に、物語前半の主人公の発言から。

親父の言い出した理屈で何人も死んでるのは事実なんだ。利用されたからって、それが言い訳になるわけもない。・・・それに戦争を終わらせるためには、誰かが、贖罪羊(スケープゴート)にならなきゃいけない。俺なりに、親父の始めた騒動のケリをつけなきゃいけないと思ったから。


「日本のために/戦争のために 自分が犠牲にならなきゃいけない」という言い回しは、どこかで聞いたことがあるような気がします。いつかの日本とそっくりですね。ところが、「近親者の始めた戦争を終らせなければいけない」という言い方には、少し別の含意があるような気がします。登場人物たちの中にあるのは、「戦争を終わらせるために」戦争をおこなっているのだという心づもりです。この点で、作品内には「お国のために死ぬ」という言説は排除されていると考えます。

また、作品では、作品内の「戦争」を70年安保との関連で説明しているところがいくつかあります。

――気付けば踊らされていた。七〇年安保の時と似たようなもんだ。

――それを言うなら、二次大戦だって一緒よ。(この戦争を始めた政治家・企業家たちは大義名分を振りかざし、けれど内心では関東の独立による経済的な利益を求めて学生たちを扇動し……そして自身は、情勢が危うくなると、さっさと国外に逃亡してしまった。そうして、残されたのは……愚鈍に理想を追うことしか知らない、学生ばかりだ。)


本当にそうなのでしょうか。70年安保を学生との絡みで出ているので、素直にスチューデント・パワーが爆発した1968年以降の動向を指していると考えると、70年安保とどこが共通していると捉えられているのでしょうか。
今更、1968年のことを考えるのは難しく、ひとつの歴史的事実に対する捉え方も個人によりさまざまです。とりあえず、とかく意見の大勢を語ることの多い当時の雑誌を参照しながら、70年安保と「戦争」の関係を簡単に整理してみます。では次回に。

*1:前島賢セカイ系とは何か』では、こうした作品をセカイ系の文脈で論じ、『エヴァンゲリオン』以降の戦争の描かれ方が大きく変化したと述べられています。