『群青』が解体する「日本」6

今回は、この作品が参照枠としている「学生闘争」について簡単に触れて、作品の世界観を理解する助けとしてみます。

そもそも、どうして実際の歴史を引っ張り出すことが作品理解に繋がるのか、という疑問をもたれてしまうこともあるのですが、だいたいある作品というのは、先行する事実や他の作品の影響を受けているものです。まして、この作品は綿密な時代考証を売りにしていることもあって、こんな台詞も飛び出します。個人的に好きな台詞。

一方的に先制攻撃されて、戦意の衰えた例など過去にない。滅亡した国家・民族はあるがね。もうちょっと歴史を勉強しなさい。


実際の戦略分析が過去の歴史を紐解くことで基礎付けられることを作品内で語っているのだから、歴史を考えてみることは有意義なことですよね。前置きはこれくらいにして。


そもそも、「学生闘争」とは、1965年の北爆以降泥沼化したベトナム戦争に対する反戦運動などを契機とし、先進諸国で活気付いたスチューデント・パワーの一環として始まりました。では、日本ではどうして学生による実力行使がおこなわれたのか。
一般には、閉塞感の鬱積した1960年代後半の日本の中で、貧富差の固定や退屈な授業、ベビーブームによる子どもの増加などに対して、「現代的不幸」を感じた大学生たちが多く存在していたことから説明されます。そしてそれはたいてい、「『近代的不幸』しか理解しえない前近代の大人たちには、戦争も飢餓も知らない若い世代が、理解不能な暴力行為に走っているか、甘えているとしか」捉えられなかったのです。*1


ただ、ちょっと考えればわかるのですが、この当時も大学生は多様だったはずです。例えば、東京大学駒場祭実行委員長だった川喜多喬は、同じ学生たちが佐藤栄作首相の訪米への反対デモをおこなったことに対し、次のように考えていました。

駒場祭委員会は、駒場祭期間中全学を管理する権限を保持している。・・・その駒祭委に一切無断で、彼らは二千余を持って[ママ]駒場に入り第一本館・九百番等を占拠したのだ。これは明らかに学生自治の原則をふみにじる行為といわねばならない。・・・われわれはもちろん一般的に学生の手による完全な学園封鎖・管理を否定するものではない。・・・しかしながら、これ[侵入した学生の発言]がクラス・サークルからの現実の運動に応じた方針を与える大衆運動破壊であると同時に我々は、駒場祭と訪米阻止闘争を対立させてはならない。(「東京大学新聞」1967年11月13日付)


その他、なかなか面白いのは、東京大学で篭城する学生たちに対して、『朝日ジャーナル』という雑誌がインタビューをしていて、なぜ篭城するのかという記者の質問に対する答えが面白い。例えば、

「われわれにはつっ走っても失うべきものはなにもない。いわゆるノンポリ・ラジカルといわれるわれわれにとっては、ひたすら思想の表現だったともいえる」(「朝日ジャーナル」1968年8月4日号)

のように、全てを書くことはできないのですが、とにかく篭城の目的が曖昧なんです。教官による学生の「全人格的支配」といった、大学に対する不満、共同体に対する不信があり、インテリ・知識人が陥っている疎外状況に対する憤りが、「ぼくら自身の変革とか進歩」と結びつき、運動の推進力となっていたのである、という説明が示すとおり、学生闘争は、しごくプライベートな目的をもっておこなわれた側面があるということです。

「大学はむなしきものである。現体制にはひずみが多い。世の中は狂っている――ただその一点だけではゲバルト学生も、一般学生も、原理運動の学生も、先例を受けた学生も一致する。対応の仕方は異なるが、そう信じきってうたがわない」(毎日新聞社会部編『ゲバ棒と青春』エール出版社、1969)

という共通点ばかりが、学生闘争を支える根本的な思想の柱だったのかもしれません。

では、この『群青の空を越えて』で描かれる「戦争」はどうなのか? 「戦争」を支える根本的な柱は、プライベートなものなのでしょうか。それを示すために、描かれる4種の戦争の結果を考えてみる必要があるわけです。
学生闘争や他の話を絡めながら、描かれている4つのエンディングにおける「戦争」を見ていきます。そこでようやく、それぞれの戦う理由がわかるのかもしれません。

*1:小熊英二『1968<上>』新曜社、2009、25頁