『群青』が解体する「日本」2

ゲームの電源を入れると、物語は、普通の学校風景から始まります。お昼休み、人気のある食堂は混み、仕方ないからパンでも食べようか、といった友人とのやり取り。


そこに、突然警報が鳴り始めます。


「関西軍」からの核攻撃を想定した、訓練である、と。そしたら主人公は、グリベンという戦闘機のパイロットで、なんか英語ばっかり喋ってる。
プレイヤーにとっては、ただただポカーンとさせられるシーンの連続です。


まぁもちろんこれは、この作品の前提となる世界観が、現在の日本に照らして考えれば「非日常」であることを示す装置に他ならないのですが、ちょっとまあエロゲとは思えないですねw


何かよくわからないけれど、関東と関西がまっぷたつに分かれて戦争をしていることだけは読み取れて、そしてこのエピグラムが流れます。

国家という名の幻想の河を越えて、苦難の道へと歩み出さなければならない


このエピグラムのあと、いわゆる「日本」を取り巻く世界状況が明らかにされます。西日本を支援するのは北米で、関東自治共和政府を支援するのはEUで、そのどちらにも関わるイギリスはどうしてんだ、とか、そういう感じです。


まず、「国家」の枠組みとは一体何なんでしょう。それを、現在世界にある最小の国家であるシーランド公国などを例に考えてみましょう。

シーランド公国は、イギリスの南に浮かぶ島で(というか要塞)で、面積はバスケットボールコート1面分、人口は2008年で4人だそうです。気になる方はwikipediaなどでどうぞ。
イギリスの領海とシーランド公国の領海は重なっていないので、イギリス側の猛反対がありながらも、理論上は成立してしまった国家なのです。でもまぁ、こんな国家は誰も認めていないわけで、国際的な評価からいってしまえばこれは「国家」ではありません。


しかし、井上ひさしの小説『吉里吉里人』の中で独立した「吉里吉里国」は、一定の国際的な評価を受けてしまいました。1933年に成立したモンテビデオ条約に則り、「吉里吉里国」は台湾・ボツワナケベック州といった諸国家・諸地域との外交に成功しています。


我々は、「日本」が当たり前のようにひとつの連合体だと錯覚しています。政治は一律のものがおこなわれているような気がするし、スポーツでは「日本」の勝利に酔いしれる。
ところが実際は、関西人はどこにいっても方言を死守し、ちょっと東京を出るとマクドナルドの値段が変わり、お雑煮の味まで変わる。こうした「地域性の違い」を越えて、何となくつながっているような気がする「日本」って一体なんなんでしょうね。
それは、「日本」をひとつのものとして考えていると永遠にわかりません。かといって、その集団を全て個に分解し、セカイ系に陥ってしまうと、その個が集まったときにどのような作用が生まれるかを見逃してしまいます。現実世界においては、1をN回足したものはイコールNになるわけではないですし、1にNを掛けたものとイコールになるわけではありません。


そこで、日本を2つに分けた(ように最初は思える)この作品が、「国家」を考える上で手がかりとなってくるのです。方法論の話が長くなりましたが、続きは次回へ。