『群青』が解体する「日本」10


さてヒロイン3人目。いわゆる年上のお姉さんです。


このルートでは、戦争が思ったより早く終わってしまうのです。作品を通じて語られる背景に、日本国内の「戦争」がアメリカ大統領選と密接に関わっていることがあげられるのですが、ここでは、現職を再選させるために、関東を降伏させるという国際的な取引が行われることになります。

戦争が早く終わってしまうからこそ、このルートでは戦闘機で殺し合いをする機会が減っています。その代わり主人公は、戦闘機を撃墜してしまったことに対する良心の呵責に苦しむのでした。いよいよ、「人を殺す」ことがリアルに描かれるようになります。*1

あたりまえですが、戦闘機に乗り戦うというのは、哨戒飛行も含めて、誰かに殺される・誰かを殺す可能性のある行動です。*2その、「人を殺して当たり前」という戦争の前提を、少しずつ切り崩していくのがこのヒロイン3人目のルートです。

シューティングゲームならいざ知らず、この物語で描かれているのは「戦争」のもう少しグロテスクな部分です。では、どうして「戦争」では相手を殺してしまうのでしょうか。


世界がもし100人の村だったら』を監修したことでも有名なダグラス・ラミスは、『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』などの書物で、20世紀に国家(軍隊)によって殺された2億人の犠牲者のうち、1億3000万人は自国民によって殺害されているというデータを示しています。この数字から何を読み取れるかは一概には言えませんが、戦争の中では、「敵」だから殺すという論理は必ずしも通用しないのではないかと感じてしまいます。

この『群青の空を越えて』も、同じ「民族」である日本人が戦争でお互いを殺しあう状況が描かれているのですが、こういう戦争はそう遠くない過去の中に存在します。姜尚中森達也が戦争の場を訪ねて対談をおこなった『戦争の世紀を超えて』(集英社、2010年)の中にある記述から、こうした同民族同士の殺し合いの典型ともいえる朝鮮戦争の問題を抜き出してみたいと思います。

姜は、同一民族が殺し合いを展開した朝鮮戦争の前提について言及し、それを森が以下のように要約しています。

同一民族内のルサンチマン的な衝動が、日本の植民地支配時代を通じて醸成されて、一九四九年を迎えたときには飽和状態になっていた(前掲書248頁)

本来は植民地支配をおこなった日本に対して向けられるはずの憎悪が、植民地支配の末端の権力を担った同族の地主層に向けられてしまった。同族がすべて被害をこうむったわけではなく、「支配される側」を一様に物語ることはできないのだ、ということを意味しています。

以上の記述における、

  1. 「戦争において『敵・味方』という二分法が通用しない可能性」
  2. 「『味方』を自己意識の中で二分することでルサンチマンが生じる可能性」

というふたつの問題は、この論考の後半で整理して述べたいと思うのですが、とりあえずここで言えるのは、こうした発想はすべて、戦争が終わった後に先の事件を振り返る「後知恵」であるということです。その「後知恵」が使えない当事者たち、つまり『群青の空を越えて』で描かれる人物たちは、問題を考えることを先送りし、思考停止(=「戦争に参加した理由はわからない」)に陥ってしまう、という構図になっています。
次回はその具体的な場面を考察したあとで、また別のルートからこの作品を捉えてみたいと思います。

ああ、なんかカタイ話で疲れてしまいますねw

*1:というのも、ここまでは「人に殺される」ことがリアルに描かれるにとどまっていました。GCI(地上要撃管制)で戦闘機の点が消滅したり、地上戦で内臓が破裂した死体の描写がなされたりするのは、すべて「自分」とは関係のない「他者の死」です。

*2:恐ろしいことですが、200人以上のパイロットが勤務するアメリカのクリーチ基地では、イラクアフガニスタン上空を飛ぶ無人偵察機攻撃機を衛星システムで操作しています。戦闘機さえもコンテナの中で操作できる世界では、もはや「人を殺す」というリアリズムが希薄になっていることは想像に難くありません。