『最大公約数』、第二回です。
「君が8なら 僕は2になる 僕が10なら 君は5になる」ってフレーズのおかしさをしつこく考えているところでした。


「公約数」は、ふたりに数字が与えられていることが前提であるという問題で、「君が9で、僕が16ならどうすればいいんだ?」という疑問をどう解消するか、ですよね。
そして、「君が8なら」 僕はなぜ4になってあげられないのか?


<ヒューマン・サイエンスっておいしいの?>

まず、この議論から少し離れて、人間科学(ヒューマン・サイエンス)の前提となっている知識について説明します。下図を見てください。

心理学とか社会学の授業とかで必ず語られる話っぽいので、そういうことが専門の人には見飽きた図だと思いますが…

簡単に言えば、「人の心は見えない」ってことです。

「人の心が見えない」からこそ、小説とかでは登場人物の表情・言動だけで「気持ち」を推測しないといけないんですよね。それが小説の面白いところでもあるでしょう。

人間を学問研究の対象とするときも、人の心を直接見ることはできません。だから、人間にさまざまな種類の刺激(Stimuli)を与え、それに対するさまざまな反応(Reaction)を観察することで心の働きを推測するしかないのです。このSとRは、客観的なデータとして与えられますからね。
子どもAにおもちゃを与える(S1)と、30秒泣くのを我慢した(R1)。
子どもAにおやつを与える(S2)と、36秒泣くのを我慢した(R2)。
あんまりいい例が浮かばないんですが、こんな感じです。


この『最大公約数』の中にも、この「人間科学」の前提に触れている詞があります。

パパとママが 心だけは隠して生んでくれたのには それなりの理由があった

<「ふたりだけ」の公約数>
…という前提を確認してからこの「君が8なら 僕は2になる」の意味を考えてみると、深いなぁって気がしませんか…?

この数字が何を指しているかを詳細に突き止めることはできないのですが、たとえ恋人であっても相手の心は読めないのです。だから、相手の「数字」も読むことができない。常に「君」か「僕」かのどちらかの「数字」しか詞の中で書かれていないのは、どちらかの視点では、両方の「数字」を見ることができないからなのです。

両方の「数字」を見ることができるのは、客観的な事実によるものだけです。「僕の2歩は君の3歩」や「別れない理由100探す」といった、言葉や行動に現れる客観的なデータだけが、両者の「数字」を明らかにできるわけです。


「君が9で 僕は16」。
この二人がカップルになったとしたら、「君が8」になったり、「僕が18」になったりするんでしょうね。そういった試みは、相手の数字が見えないからこそ、二人の間の距離を測りながら長い時間をかけて行われていくものです。

「君が7で 僕は11」。
この二人は、もしかしたらカップルにさえなれないのかもしれませんね。どこかですれ違ったまま、お互い別の人生を歩んでしまうのかもしれない。でも、何かの拍子で「君」の「数字」が1つ減り、「僕」の「数字」が1つ増えたら、二人の最大公約数はとても大きな数になったりしますよね。

「君が8なら 僕は2になる」。
このフレーズは、現実世界では容易に「僕は4になれないよね!」っていう葛藤を表現しているのかもしれません。「僕は4になる!」って言って、「僕」が5になってしまっては元も子もないですからね(笑)


もちろん、単に曲と詞の文字数の関係でしょ!って思う人もいらっしゃるかもしれません。
でも、こんな考え方もできるんだなって思ってもらえると嬉しいです。


人間科学の導入にふさわしい格好の材料でしたねw
ではでは、次は別作品で同じようなことをやってみましょう。