少し間が空いてしまいましたね。
RADWIMPSと人間科学、第3回です。

次からは、『愛し』(かなし)を取り上げます。
(歌詞はhttp://music.yahoo.co.jp/shop/p/53/321049/Y042597でどうぞ)

<僕、君、自分、誰か…?>

一読して、この歌が何を語っている詞かわかりますか?
……僕はわかりません。
この文章を書くために読み込むまで、何がなんだか訳がわかりませんでした。

この詞のエッセンスを抽出しようにも、詞全体が有機的な関わりを持っていて分析が難しい歌詞でもあります。
簡単にまとめてしまうなら、
自分のために物事を考えてしまう「僕」と、
自分のことはある程度投げ打って「誰か」に尽くす「君」との違いを述べ、
「僕」が「君」の意図を汲んで分かり合っていく、という物語、とでも言えましょうか。


この歌詞がわかりにくくなっているひとつの原因は、「君」「僕」という二語があまりにも乱立しすぎていることにあります。
どこかのジョークで、ヴィジュアル系の曲の歌詞は、「君」「僕」の二語と指示語だけで作れるというものがありましたが、それくらいのレベルで「君」「僕」が多用されています。
この一節とか、もう大混乱ですよね。

君はそう きっとそう 「自分より好きな人がいる」自分が好きなの
今は言えるよ 「自分より好きな人がいる」今の僕が好き

うーん、よく考えればわかりますが、
ところどころに表れる「自分」「自分自身」という語の指示するものの不確かなことや、
「誰か」ってのは一体誰を指すのかという疑問が、
この歌詞を一層わかりにくくしているような気がします。

と、ここまで書いてピンと来た方もいらっしゃると思いますが、
僕はこう断言します。「野田洋次郎は、これを狙って書いた」。


<人間科学と『愛し』>

前回と同様、僕は「愛し」を人間科学の観点から分析しようと思っているのですが、まずこの部分をお読みください。

心はいつも言葉に隠れ黙ってた 神様はなぜこんな深くに心を作ったの?
心と言葉が重なってたら ひとつになったら いくつの君への悲しい嘘が優しい色になってたろう

前回の『最大公約数』よりもややこしくなったのは、「心」と「言葉」の関係が論じられていることです。
この問題を念頭に置きながら、「言葉」で語られた「僕」の心情をまず読み解いていきましょう。

前半部の「僕」を箇条書きにすると、こうなります。
◯ 「心がいつか嘘をつく」とどこかで知っていた
◯ 「僕の心」を「僕」だけのために使う
◯ 自分のために嘘をつく
◯ 「僕」は自分のことが一番好き
◯ 誰よりも「僕」を愛しく思ってくれる「君」を「優しい」と評する
◯ 自分に優しくしすぎていた「僕」は どれだけの「誰かを」愛せたのかわからない

ここまでは割と素直に読める気がします。「心が嘘をつく」というのは、「心」を語る「言葉」が「僕」を保身する方向に働き、「心」が歪曲されてしまうという事実を語ったものだと言えます。
・・・しかし、「僕」の本当の「心」を、一体「誰」が知っているのでしょうか?
「心」が「言葉」に変わる前の「心」を理解する存在がいるとしたら、それは「僕」以外に存在しません。しかし、その「僕」すら、自分の「心」を理解しているのは「言葉」を媒介してのことなのです。

では「心」は何によって表出されているのか、という問題は、次回に続きます!