『愛し』を「心」と「言葉」の関係の問題から捉えているところでした。

詞の後半部で、「僕」はある心境の変化を迎えます。
まず、「僕の心」を知っているのは誰か、という疑問に答えた部分を抜き出してみます。

人が人のために流す涙 それこそが愛の存在の証だ
それを教えてくれたのは君だ 君が作った僕の心は
「誰がために それが僕のために」 今は言える それがありのままに
生きてくことだと それが人なんだと
僕はそれを優しさと 呼ぶことはもうしないよ

「僕の心」を作ったのは「君」だ、とはっきり記されています。これは驚きです。
しかし、表記として「僕の心を知っているのは君」とは書いていないんです。ここがミソですよね。

そして、「君」の「心」と「言葉」の関係を伺い知ることのできる部分も見つかります。

君は泣いたね 心が「泣いて」と叫ぶまま

「心」と「言葉」が直結しているという言い方は陳腐ですよね。抽象化する言葉が見つかりませんが、この喩えによって、野田洋次郎は「君」の「心」と「言葉」の関係をしっかりと描くことに成功しているわけです。

心がいつか人を救うのを 君はいつでも知っていたの

<「人間科学」の前提への挑戦>
と、ここまででめでたしめでたし、というわけではないのが難しいところです。
この詞には、「僕」と「君」のすれ違いと和解が重層的に述べられているので、まだその一側面を見ただけに過ぎません。

前々回、刺激(S)と反応(R)の関係をみることで研究されていく学問が人間科学だと書きましたが、日常でいちいち刺激と反応を分析していたら日が暮れますよね。そういうことを、この『愛し』は提起しているのではないかなぁと思います。

 SとRの関係だけではない人間科学の研究事例については、行動療法がよい例だと思います。
「心」を扱う分野として心理学があり、この心理学を用いたカウンセリングにもさまざまなアプローチがあるようです。この辺りの心理学は、僕自身あまり興味があるところではないので、大学の授業を要約する形になってしまいますがご了承ください。

現在メジャーとされている論理療法は、人の心の悩みとは「出来事そのものでなく、出来事の受け取り方により生み出される」としています。まさに、刺激(S)と反応(R)の間にある、「心」が問題とされているようですね。

ところが行動療法というアプローチは、「行動は環境による変数」という前提の下で議論を進めていきます。

B=f(E,O)  B:behavior E:environment O:organ

この行動療法では、行動の背後に「心」を仮定しません。「心」は目に見えないので、研究・カウンセリングの対象から除外するわけです。問題となる「行動」が消失したら、このカウンセリングは成功となるのです。

心の捉え方にも、実にさまざまな方法があります。
この問題については次回、「人間科学の限界」として触れたいと思います。

とりあえず『愛し』についてひとつの結論を提示しておきます。

君の いつだって誰かのためにあった心はいつも
そんな自分を愛したのだろう


「愛する」という行為は、決して誰か一人の中で完結するものではありません。誰かを愛するという営みは、自分を愛するという営みの一環であり(あるいはその逆、自分を愛するという営みは誰かを愛するという営みの一環だとも表現できる)、閉鎖的な「愛」は存在しないのだ、という事実がはっきりと存在する、ということ。

すごく消化不良になってしまった気がするのですが、いつかまたリベンジしたいと思います。僕が考えるこの歌詞と他学問の関係については、脚注*1を参照してください。

*1:自己言及のパラドックス…心の問題とは全く関係ないのですが、「『すべてのクレタ人は嘘つきだ』とクレタ人が言った」ってヤツです。ゲーデルの話とかすると僕はパンクするので、コイレという人が考えた自己言及のパラドックスの解決方法を紹介しておきます。そもそも、自己言及文は文ではない、というのが彼の解釈です。文は主語と述語から成りますが、「私の発言は嘘である」という文の主語らしき「私の発言」は、既に嘘を含んでいるのだから、この文の主語は「私の発言は嘘である」である。だからこの文章には述語がなく、ゆえに「文ではない」という解釈です。ああ、なるほど。ということは、恋愛においては、「君」と「僕」がほとんど一体となっているから、主客を分離することが間違っている、故に、『愛し』においては「君」「僕」がどっちを指しているかは問題ではない、という解釈もできるんですね