最後に『有心論』を取り上げて、人間科学の限界について語ろうと思います。
歌詞はhttp://www.utamap.com/showtop.php?surl=B17747

そもそもタイトルからして挑戦的ですよね。「心」が実在として「有る」という「論」をこの歌詞で展開するわけですから、人間科学は涙目です。「人の心は見える」、少なくとも詞の主人公である「僕」にとっては「心は実体としてある」と言っているわけですから、この詞を「人間科学に対する批判」として読み取ることは、野田洋次郎の意向にも一致していると僕は考えます。

「心」が「実体として存在する」ことは、以下のフレーズから見いだせます。

だって君は 世界初の肉眼で確認できる愛 地上で唯一出会える神様

息を止めると心があったよ そこを開くと君がいたんだよ
左心房に君がいるなら問題はない


それと同時に、以下の二点が確認できると思います。

  1. 実体として存在している「心」は、「君」と深い関係にある、あるいは同一視されている
  2. 「心」は、「心臓」として実体化されている

<1に関して>

こういうと言い過ぎですが、「君」を神格視することによってこの1が実現されているのだろうと思います。「君」は「僕」を人間信者へと変え、さらには「地球を丸く作る」力を持っているのです。「君」は「命に終わり」さえ作ることができるんですから。
どう考えてもこれは、「有心論」と「有神論」がかけられていると思うのですが、僕はこれについて多くを語れないので、「オッカムの剃刀(かみそり)」に言及しておきます。
オッカムの剃刀」とは、オッカムが「必要じゃないなら多くのことを持ち出す必要はないぜ」みたいなことを著作で書いたことがきっかけなのですが、要は思考を節約する方法として用いられます。
つまりオッカムの剃刀によって、次のフレーズは切り落とされることになります。

誰も命無駄にしないようにと 君は命に終わり作ったよ

誰も命無駄にしないようにと 命に終わり作ったよ


命に終わりがあるのは自明のことなので、何も「君」(=神)を持ち出す必要はないわけです。だから、文字数の関係もあるでしょうが、他ならぬ「君」が命に終わりを作ったことが重要なのです。さて、なぜでしょうか?

<2に関して>

この詞の前提となっているのは、「君」と「僕」はもう離ればなれになっているという現実です。その上で、「君」は左心房の中に生き続け、「僕」の血となり肉となっているのだから、「問題はない」。そういう歌詞なわけです。

「心」が「心臓」として実体化されているというのは、いかにもというか率直で安直なたとえですよね。「心臓」を見たって気持ちを知ることができないという前提を、野田洋次郎は別の「現実」に置き換えてしまうわけです。

「僕」は、「君」という神なくしてはもう生きていくことができません。
もともと自分の存在に否定的な言葉しか浴びせることのできない「僕」が変われたのは、

いつかは誰かを求め 愛されたいとそう望むなら
そうなる前に僕の方から
愛してみてよ

と「君」に言われたおかげなのでした。
「君」が必要だった。

だから「君」は、「僕」の心となって生き続けることで、ずっと「僕」の傍から離れないことになったのでした。
この「心」はもう見ることができないものになり、人間科学の範疇に収まる「心」となってしまいましたが、この歌詞を読み切った後に、「有心論」を唱えたある人物の存在がくっきりと浮かび上がってくるわけです。

ごめんなさい。ややこしくなってしまったのでもう一度まとめ直してみますね。