まとめ

あれだけ意気揚々と「書く!」と言っておきながら、尻切れトンボになってしまってスイマセン。
このペースで「グルグル論」を書いていくと5年くらいかかるので、ネタバラシをします。

この論考を書こうと思ったのは、『グルグル』には従来の「子ども観」を突き崩すパワーがあるのではないかと思っていたところに、次のようなレポートに出会ったからでした。

http://fragments.g.hatena.ne.jp/gruxxx/20080905/1220619164

3万字くらいあります。
でも、僕には思いつかないような新たな視点で『グルグル』を論じられている部分が多く、本当に興味深く読ませて頂きました。
そして、これを下敷きにして、自分の考えをまとめられたら、と思い、この論考を書きはじめました。


ここで言いたかったことは、
「子どもから大人への移行期を描いている作品はちまたに溢れている。
そしてそれを子どもと大人の二項対立にとどまらずに論じている作品もある。
しかし、なぜ子どもが大人にならなければならないのかを、しっかりと書ききった物語は他にはそうそうない」
ということなのです。


「グルグル」という魔法は、「(子どもの)失敗をもとにした魔法」なのです。
だから、大人には予想もつかない。
「成功」を知ってしまった大人は、「どうやって失敗するか」なんてわからないからです。
ていうか子どもも、「失敗の方法」なんてわからないわけですしね。


カヤという魔法使いは、最後までグルグルの秘密を解き明かそうと躍起になります。
敵なのに、彼はククリが「グルグル」を書けるように手伝いまでします。
彼は、グルグルの謎を解明したかった(=子どもの謎を解明したかった)のです。
子どもを怖がらせたり、子どもに対して優位に立とうとしたりしたかったわけではありません。


だから、フルパワーを出してもグルグルに負けてしまったカヤ*1は、ククリを倒したりすることもなく潔く去っていきます。
「今度は大人同士で勝負しよう」と言わんばかりに。



RPG的世界観を風刺した『グルグル』は、
「勇者」と「魔法使い」という職業(ドラクエ的機制)が取り外された後にエンディングを迎えます。
これまでは「きまり」だから一緒にいたふたりは、
ゲームという機制の外れるエンディングのときに、恋人同士になったのです。


でも、ニケとククリが「大人」になった後も、実は子どもの世界に戻ることができます。
しかし、「大人」になったまま、ですけれどね。



「自分探し」と「自分無くし」*2を繰り返し、子どもは大人になる。
子どもが大人になるのは、「不思議な魔法が使えた時代を、いつまでも忘れない」ためなのです。
でもこれは、僕の勝手な解釈なのかもしれません。

で、この作品を、色んな方々に読んでほしい。
僕はその思いでいっぱいなのです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

*1:というか、そもそも彼らの勝負に「勝ち負け」なんてなかったのかもしれません。大人としての「闇魔法」と、子どもとしての「グルグル」。どちらかに優劣があるわけでは決してない、お互いの持っているものをぶつけ合うガチンコ勝負です。大人と子どもの優劣が前提となっている「教育」とは大きな違いですね。

*2:このふたつのことばはとても便利なんですけれど、便利であるがゆえに本質を見失うことばですね。ここでは、「自己のルーツを知る」「自己の社会的側面を知る」という、セカイ系用語とは違う意味で使っていることをことわっておきます。