なんで物語の結末を批判するの?


ゲームやマンガのレヴューサイトで、よくこんな文章に出くわすことがあります。

結末がダメだった。つまらなかった。


もうね、何を言ってるんだと。

小説や物語は、作者が提示する、「今ここにある世界とは別の世界」です。
その結末に、疑念を差し挟む余地なんかないっ!
そんなのはチラシの裏でやってろ!!といいたい。問いつめたい。


結末への「好き」「嫌い」はあるにせよ、
結末自体を批判することには何の意味もないということを、いくつかの例を挙げて説明してみたいと思います。


そうはいいつつも、「結末がすっきりする」作品ほど、
今日では高い評価を得ている場合が多いようです。

21世紀に残したい名映画みたいなランキングで、結構上位にランクインすることの多い、ショーシャンクの空にという映画。
この映画が賞賛されている理由の一つに、間違いなく「結末のすっきりさ」があると思います。
紆余曲折はあれど、完全なる勧善懲悪。善き者は救われ、悪しき者は没落し死ぬという、視聴者にとって後味のよい作品です。



文学作品は、ある結末に至るまでにはいくつかの伏線が張られています。もちろんこれはすべてのテクストに言えることなのですが、文学作品(マンガなども含む)においてはこの伏線は、一般には意図的に用意されています。
なんとなく、「物語がこの方向に向かう」といった予想があって、その到達点に向かっていく過程でサスペンスが生まれていきます。もちろん、いちご100%のように、伏線をあえて無視することでサスペンスを生じさせる、ハイセンスなのかよくわからない例外的な作品もありますが、まぁそれにしても、伏線というものが存在するから結末は味のあるものとなるわけです。

伏線を張るのが作者の役目なら、結末を用意するのも作者の役目です。もちろんこれにも例外があって、なんと結末を視聴者が決めてしまうような冬のソナタを筆頭とした韓流ドラマもあるのですが、ここではそれには触れないようにして。結末を用意する作者の役割の大きさという意味では、オチが超重要とも言われるミステリ系の小説が挙げられるでしょう。『葉桜の季節に君を想うということ』『慟哭』くらいしかちゃんと読んだものがないのですが、これらは伏線を伏線として感じさせない手法によって、「意外な」結末を生み出すことに成功した作品だといえます。

つまり結末は、「なるべくしてその結末になる」のです。作品の肝になる部分とはいえ、作品の一部である「結末」を批判することはおかしいと私は考えるわけです。
批評の対象となるのは、その結末から導き出される諸問題です。


議論を呼ぶ結末の例を、いくつか示しておきます。
たとえば、「リドル・ストーリー」という形式。
Wikipediaでもやはり、一番有名なストックトン『女か虎か?』が挙げられていますが、さんざん盛り上げておきながら、最後は、「さぁ読者のみなさん! 彼女はどちらを選んだと思いますか?」的な文章で終わり、読者に物語の方向性を委ねるという形式を取った物語のことを総称してこう呼びます。*1

他にも、エンディングがさまざまに分岐する、いわゆるギャルゲ形式のマルチエンディングは、結末をひとつに絞らず、さまざまな読後感を与えられるような仕組みになっています。もちろんこの形式も海外の実験小説として取り入れられていますし、日本文学でも、福永武彦氏の『死の島』での実践が挙げられると思います。

今回は、結末をめぐっていくつかの作品を紹介しました。
でもまぁやっぱり、結末が好みかどうかというのは、作品全体の好みを決めてしまう大きなファクターとなってしまう気持ちもわかるんですけどねw
でも結末が気に入らないからといって、その作品全てを切り捨ててしまうのは勿体ないと思うわけです。モッタイナイ!

また時間ができれば、後半の内容に特化した記事を書いてみたいと思います。

*1:open end と closed endの問題にも関わってくると思うのですが、あんまりこの言葉ってメジャーじゃないのかな?詳しく調べてみます。