3 共同体の維持の難しさ


4.「現代人にとって都合のいい『病気』」(「Last program 桜の季節」より)


最後の二回程度の短編は総集編的な役割を担い、かつ、日本でとある「病気」が流行しているという新しい設定が明かされる。恋人が発病してしまった青年が、この病気を以下のように語っている。

彼女もついに発病してしまった。考えることのいっさいをやめてしまう新しい流行病。現代人にとってある意味とても都合のいい病気。*1

彼女はこの病気に発症する前に、目の前に現れた死神に対し「今が続けばいい。時間が止まってほしい」と語っている。彼女の発症はそのせいであり、その結果彼女は自身の時間を止めてしまったのである。
この「考えることのいっさいをやめてしまう病気」が、現代人にとって都合がいいとはどういうことであろうか。1〜3で見てきたように、それぞれの世代の青年はそれぞれのやり方によってコミュニティ内で関係性を構築する。しかし人々にとってより難しいのは、関係性の構築ではなく、この関係性を維持することであろう。青年期のコミュニティは構成員の入れ替わりが激しい分、安定的に自分の地位を保つことは難しいのである。
その最たる例と言えるのが、恋愛関係であろう。だからこの短編では彼女は、恋人と一緒に暮らせる現状に幸福を感じ、「時を止めてしまいたい」と願ったのである。結果彼女は、「現代人にとって都合のいい病気」にかかってしまったのである。2で触れた岡崎が述べた、「アタシたちには時間がない」という発言とは対照的であるが、岡崎はまだ自分が納得する「青年期の完成」を迎えていないのである。だから岡崎は、しばらくのうちは「病気」にかからないであろう。
結局恋人の「病気」は治らないまま、この短編も、作品全体も終結してしまうが、この短編の中で彼氏の方は新たなバイト先を見つける。新しい職場を得た彼は、ソーシャル・コミュニティを広げることに成功している。しかし裏を返せば、この短編では多くの部分が恋人2人のシーンで占められており、その意味では2人のソーシャル・ネットワークは一切広がっていないのである。そのままでは彼女は「病気」にかかったままであり、青年期のままで物語を終えるしかないのである。


青年期のコミュニティ形成に力点をおいて、『素晴らしい世界』における若者のソーシャル・ネットワークについて考察してきたが、この短編集全体が一つのソーシャル・ネットワークとして機能していることは注目に値するだろう。登場人物のほとんどは、何人かの知り合いを通じて何らかの形でつながっており、同じ街が舞台とされることで地域的なネットワークも感じられる。短編と短編が寄り添って長編が作られるという関係が、小さなコミュニティが集まって「世界」が形成されるという関係とアナロジーになっているのである。
筆者自身も、「ソーシャル・ネットワークを広げること」が「青年期の発達課題」として何となく存在する、という暗黙の前提の上に立って論を展開したが、そもそもこの前提を疑ってかかるべきなのかもしれない。確かに最後の少女が「病気」から癒えないのは、コミュニティの拡大を拒む思いからであろうが、必ずしもこれが大人になるための条件とは限らない。概念の上で「大人になる」ということの方が陳腐で残念な将来が約束される、という矛盾をはらむ場合もあるのである。


【参考文献】
浅野いにお『素晴らしい世界』小学館、2003年(第一巻)、2004年(第二巻)
浅野いにお『世界の終わりと夜明け前』小学館、2008年

ハヴィガースト、R.J.『人間の発達課題と教育:幼年期から老年期まで』荘司雅子他訳、牧書店、1958年
今村仁司編『現代思想を読む事典』講談社現代新書、1988年
辻大介「若者のコミュニケーションの変容と新しいメディア」『子ども・青少年とコミュニケーション』北樹出版、1999年
藤原帰一編『テロ後 世界はどう変わったか』岩波新書、2002年
今井康雄『メディアの教育学 ―「教育」の再定義のために』東京大学出版会、2004年
堀有喜衣編『フリーターに滞留する若者たち』勁草書房、2007年

*1:『素晴らしい世界』2巻、p.196