2 学生のソーシャルネットワーク

続きです。

2. 中学生のコミュニティ形成について(「12th program 砂の城」より)


この短編には、二人の女子中学生が登場する。小学生の頃は「泣き虫」だったが見事「中学デビュー」を果たした岡崎サトと、超然とした雰囲気のために友達もいない少女の交流を描いている。二人は小学生時代からの友達であったが、今では岡崎の様子が変わったために疎遠になっていたのである。
後者の少女の方に視点人物が設定されているが、彼女を通して岡崎の意図が語られる。岡崎は「人気を取るため」には「努力」することが必要だと語っており、その主たる要因を「アタシたちには時間がない」からだと考えている。この台詞には、彼女のアイデンティティを構成する二つの側面が読み取れる。

第一に、コミュニティを形成するためには、自己をある程度歪曲する必要があるという側面である。アイデンティティを構成するものは、他人との関係性によるところが大きい。岡崎は、恋人に対してすら部分的で表層的な対人関係を構築することで、多くの人々から自分の存在を認知してもらっているのである。
これは、先ほど述べた1.のホヅミのアイデンティティ形成とは若干趣を異にする。ホヅミは、異なるコミュニティには異なる自我を使い分け、そのコミュニティで必要とされる役割を演じる。教師の前では役割型を演じる反面、仲間内では逸脱型を演じており、読者の側からはどちらが「本当の彼」なのかはわからない。しかし岡崎は、基本的には同じキャラを貫き通すが、視点人物との会話によって、読者は「みんなから好かれるように頑張る岡崎」こそが「本当の彼女」なのだということがわかる。
しかし、実際にどの自我を「本当の自分」と認めるかは自分次第であり、本質的には他者によって認識されるものではない。「本当の自分」が最奥に位置し、どの程度の深さで他者と接するかというコミュニティの形成方法ではなく、「本当の自分」なんてどこにもない、部分的ではあるが表層的ではないコミュニティ形成方法が、青年期の若者の中で浸透しているのではないだろうか。このように考えると、ホヅミも岡崎も、自分の部分的なアイデンティティを他者に見せ付けることで深い関係性を築き、自らの居場所をコミュニティの中に求めていると捉えることができる。

そして第二に、「アタシたちには時間がない」という、青年期の危機感と共にあるアイデンティティ形成の側面である。青年期に済ませるべき発達課題は、ハヴィガーストの10の理論に照らして考えるならあまりにも重責である。岡崎はその全てを、中学3年間、あるいは中高の6年間で達成しようとする。彼女は、小学生の間「泣き虫」だった分、その遅れを取り戻そうと必死なのである。それでは次に、ハヴィガーストの青年期の発達課題の中の「職業の選択・準備」という項の達成に悩む年代の青年を取り上げてみたい。


3. 高校生・大学生の進学・就職とコミュニティ形成
次に考えたいのは、高校を卒業し、大学進学すべきか就職すべきかで思い悩んでいる青年たちの物語である。「9th program シロップ」では、大学受験に失敗し2浪目に突入した2人の学生と、予備校に現れた不思議な若者の交流が描かれる。3人にはそれぞれ「夢」があり、その通過点、あるいは「もしものため」に学歴を欲しようとする。また、「8th program Untitled」で登場する青年は、配属先が東京ではないため、恋人と離れ離れになることを悲しんで内定を蹴ってしまう。あるいは「14th program 月となると」では、老舗料亭を継ぐはずだった二人の兄弟のうちの弟が、家柄の低い恋人との結婚をするために実家を去るという場面も描かれている。
堀有喜衣は、フリーターに滞留する若者の問題点として、若者のソーシャル・ネットワークの問題を取り上げている。*1若者にとっての職場は、単なる仕事環境としてではなく、各人の抱える悩みの相談を行うネットワークとしても機能しているというのである。しかし、職場以外の相談ネットワークが充実していた場合、必ずしも若者は職場を持ちたいとは思わないだろう。それは同様に、大学に対しても当てはまる言説である。
大学や職場以外の場所に、若者のソーシャル・ネットワークを構築する依り代があるのならば、彼らを就労へと駆り立てる要素は減少する。この事実を考えると、ハヴィガーストの青年期発達課題は、内的な矛盾を抱えており、10の項目の実現には多大な時間を要するのである。フリーターやニート、決められたレールを踏み外した者は、時として社会から「はみ出し者」として扱われる。ところがそれは、発達課題やそれに類する子どもが、さまざまな知識を得て大人へと「単線的進化」を遂げるという観点から考えた場合であり、実際の青年期を生きる若者はレールに沿わなくても、たくましく生きることが可能であろう。

「子ども」から「大人」になるという過程には、「これができたら大人」といった基準があるわけではない。それを明確に区分するためにイニシエーション(通過儀礼)は存在するのかもしれないが、たいていは形式上のものである。さらにはこの通過儀礼ゆえに、子どもは大人へと単線的な「進化」を遂げていくことが理想であると錯覚させられている。それゆえにたいていの若者は、夢をあきらめて就職し、現実世界で守るべきものを守るのである。浅野いにお作品のいくつかには、こうした「単線的進化論」への非難をテーマとしたものもいくつかある。そしてこの『素晴らしい世界』で最後に描かれるのは、「単線的進化論」が蔓延する現代社会に対して、ある病気が流行するという結末である。

*1:堀有喜衣編『フリーターに滞留する若者たち』勁草書房、2007年、p.177