長い長いテーマでしたが、今回でようやく一区切りです。


ミスチルがもたらしたパラダイムとは何かについて、ひとつの答えを出したところで前回は終了しました。


「自己」が「自己」たりえるための「記号」として、ミスチルは自身の歌を通して、ある提案を行いました。その提案に対して、僕らはある種の安堵感を覚え、そしてその提案の骨子を自分のものとしてしまったのではないでしょうか。


いささか言葉遊びのように、「『自己』を『自己』と区別することにより、『自己』を『自己』たらしめることに成功した」と述べましたが、桜井氏が意図せず行ったことはこのことなんですよね。Mr.Childrenの名に相応しく、さも自我の確立していない子供であるかのように、「自己」のいくつもの側面を書き分ける才能。それを彼は天賦の財として有していたわけです。



「自己」と「自己」を区別するとはどういうことなのかというと、「自己」の規範を見つめなおすときの比較対象が、「他人」ではなく「(もうひとつの)自己」になるということなのです。記号論の説明でも触れたように、差異化はある事象に区別が必要なときに生じます。「water」と「水/湯」は、文化の違いとか言語的な便とかで説明がつきますが、「自己」と「自己」の区別は、もっと個人的で私秘性をもった理由でなされるのです。過去の自分とか、恋人といるときの自分とか、「もうひとつの自己」なんてのはいくらでも存在しますし、善悪のような道徳的価値判断は下しがたいとしても、「もうひとつの自己」を見つめながら「自己」を見つめることは、「自己」の変化を知るよい機会となります。「自己」と「自己」の区別は、「自己」をさらに〝向上〟させるための手段なのです。


ここで、比較対象が「自己」である、というのは、「自己」の手によって「世界」を構築することが可能であるということを意味します。いわゆる「セカイ系」というジャンルは、ヲタの世界でも、非ヲタの世界でも、こんな風に蔓延していったんですね…。



ミスチルの影響を受けているかどうか定かではありませんが、そういった風潮は現在のJ−POPにも色濃く現れています。例えばYUIは、今回のアルバム『Can’t buy my love』で、10代の自分とハタチになった自分の間に線引きをしようとする曲をいくつも歌いました。そんな彼女が支持を集めているのも、いまや当たり前のことなのかもしれませんね。


別に、それが悪いことじゃないし、それを改善していこうという気が僕に無いから、この論があまり意味の無いものになってしまうんですよね(笑)
ただ、この長い文を通して言いたかったことは、当たり前のように摂取しているカルチャーの中にも、僕らの価値や倫理や規範を「規定」している何かがあるのかもしれない、ということです。ここに書き連ねたことは、僕自身の見解でしかなく、論理矛盾を指摘されたらしっかりと返答できない部分もありますし、僕自身もわざと論理飛躍を行っている部分もあります。


今あるものを、「当たり前」としてではなく、ワンクッション置いて捉えられるといいですね、という一例でしたw 


僕の友人に、ミスチル大好きな人がいて、ミスチルの周辺に関わったひとたちを全て好きになる、という人がいます。「ミスチル」など人気を集める歌手が、さまざまな知見を得るためのきっかけになったらいいですよね。



次回は、3回くらいで終われるような内容がいいですね…。
もう少し一つの詞をじっくり解釈できるようなテーマにしてみたいです。