あと2回で終わるかなぁ、という感じのこのテーマです。


他とは違うとはどういうことなのか、その差異化の体系を突き止めていくために、これ以上分割できないindividualな単位として「個人」を軸に考えていこう、というところまで来ました。

個人の中にある多面性、というと話は簡単なのですが、その面々の相関関係、というと、一言では語りつくすことのできない議論になってしまいます。


「異文化交流」って簡単に言うけど、それがミスチルの言う「互いを認めること」で達成されるなら、それはそれは素晴らしい世界だなぁと思うんです。例に挙げるのがマイナーなもので申し訳ないのですが、『沙耶の唄』という作品は、その「異文化を認め合う」論が無意味な幻想に過ぎないことをまざまざと見せ付けてくれます。地を這う液状のカニバリズム的「怪物」と人間が「文化交流」⊇「恋愛関係を持つこと」ができるか、を、手塚治虫の『火の鳥』をオマージュにして描いた作品です。*1


まぁそういうことをミスチルの歌詞を参考に読み解いていくわけです。


知らぬ間に築いてた 自分らしさの檻の中で もがいているなら
誰だってそう 僕だってそうなんだ
   ――『名もなき詩


自己というアイデンティティが、「自己」を発露する障害になるというジレンマ(?)をついた歌詞です。「自分」を押し出すことが重要と語りかける歌詞が世にはびこる中、この「真理」はある意味新鮮でした。では、「自己」が「自己」たりえる明証とはいったい何なのか? 

「愛してる」って女が言ってきたって 誰かと取っ替えのきく代用品でしかないんだ

   ――『フェイク』


何かションボリしてきますね。自分の「文化」(もういっそ「世界」といった方がわかりやすいんですが)が他人から認められ、「自己」が「自己」であるという勲章を得ることはできないのでしょうか。

何にも縛られちゃいない だけど僕ら つながっている
どんな世界の果てへも この確かな思いを連れて

  ――『Worlds end』


「世界の果て(=end)」でも、「自分」を定義づける「確かな思い」は、「自分は何にも縛られていない」という「自由」です。「自分」のことは「自分」で決定を下すことが出来るその自己完結性を持ちながらも、「僕らはつながっている」という「文化」間の交流を重んじる他者意識の二面性が、「自己」を「自己」たらしめるために設定される「end(=目標)」なのかもしれません。



結局僕がこの論考で何を言いたかったのか、が不明瞭になってきているので、一度話を整理させてください。

ここまで見てきたように(これはミスチルに限った話ではありませんが)、「自己」が「自己」たりえる方法の可能性を多面的に捉えるがあまり、「自己」が多極化してアイデンティティを確立させる方法が曖昧になってしまったのではないでしょうか。そういう状況の中で、ミスチルは「自己」を「自己」たらしめる方法――それもかなり強力だと思われる――を構築しました。



それは、「自己」を他の存在と「差異化」することでした。


時代に埋没する「自己」を、他の存在と区別すること。


誰もが予想しておくべきだった展開 ほら一気に加速していく
ステレオタイプ ただ僕ら 新しい物に飲み込まれていく

  ――『Center of Universe


もっとわかりやすく、言葉遊び的に言うなら、ミスチルは「自己」を「自己」と区別することにより、「自己」を「自己」たらしめることに成功したのです。


いや、お茶を濁したわけではないんですw
「自己」の差異化とはどういうことなのか、を突き詰めて、このテーマの終幕とします。

*1:ある生命体が言語を持たないことを、その生命体が「文化」を形成し得ないことの理由にされることが間々ありますが、それはナンセンスではないかなと思います。もちろん、蓄積された知識をculture(=教養)として後世に残せないという違いはありますが、人間の世界でも「文化」は日々流転していくのです。生存に必要な「文化」は、文字化される間もなく日々変わっていくことを考えると、人間も文字を持たない生命体もその点では同じなのかもしれません。