今回は、恋愛以外の社会的なテーマを扱ったミスチルの歌詞を参照しながら、ミスチルの押し広げたパラダイムについて考えていきます。

僕の個人的な事情で更新が遅れまくり、だらだらと続くのがうっとうしくなってきたので(笑)、ここに字面を割くことはやめにして、あっさりと次のテーマに進みますね。


次に考えてみたいのは、あるふたつの「文化」を取り上げた詞です。もちろん「文化」をふたつに限定するわけではないのですが、まず「自文化」との比較から異文化理解ははじまりますから、その文脈に即して歌詞を見ていきましょう。


君は君で 僕は僕
ひとつにならなくていいよ 認め合うことができるなら

            ――『掌』


異文化を認め合う寛容さは異文化をもつ人々が共存する上で大切な一要素となるのは言うまでもありません。そのことを、「恋愛」の文脈から「全人類」の文脈へと押し広げたこの楽曲は、ミスチルならではの素晴らしいものだといえます。


「文化」というと大げさですが、その「文化」を形作っているのは、その「文化」の構成員ひとりひとりなのです。僕は、このミスチルの作り上げた「文化」は何なのか、という疑問を解明するために、こんな地道な作業をしたりしているわけですw
もう少し見てみましょうか。


また君の中の 常識が揺らいでる そしていつしか慣れるんだ
当たり前のものとして 受け入れるんだ

           ――『ニシエヒガシエ


「異文化」に出会ったとき、人はどうするのか。それが局地的な「文化」であれば、自分には関係の無いものとして「認める」のが一番の策(当たり障りもないし)だと思うんですが、その「文化」がどうしようもないほど大きいものだったら…? というのがこの歌詞です。

結局私たちは、「異文化理解」ということにおいては、「理解」することよりも、「相手は異文化である」ということに重点を置きすぎるきらいがあるようです。「自分とは違う」文化を理解するためにどうすればいいか、ということが「異文化理解」の中核になっていたミスチル世代には、至極当然のことかもしれませんし、偉そうにこんなことを書いている僕もそのミスチル世代に違いありません(笑)

そもそも今や、「君」や「僕」がひとつの「文化」から成り立っているという考え方が批判の対象になっているのです。詳しくは「文化相対主義」「多文化主義」というワードで検索をかけてみてください。「現実的」とされていた考え方は、どんどん「非現実」な考え方へと変わっていっているみたいです。


個人の中の「異文化」ということを考えていくと、もっと小さな単位、これ以上分割することのできないindividualな単位で「文化」を捉えていくことが必要のようです。最後に、今回の論でもっとも言いたかった章段となる、「個人の中の差異」という部分を検証して、この「ミスチル記号論」を終わらせようと思っています。

ここまでは、僕自身がなじみのある曲ばかりを取り上げてきましたが、次回は少しマイナーな曲も取り上げていこうと思います。