テスト中ですが、両津です。


今回は、恋愛と友情を差異化するものとしてミスチルが提示した「記号」という概念について考えようという試みでした。

でも、ここは別に主張したい部分じゃないんですよね(笑)手短に済ませて、次は「文化の差異化」って重いテーマに進むことにしましょう!


ミスチルは、彼らの活動期間から考えると比較的間を置かない段階で、『sign』と『しるし』という、似たテーマを扱った楽曲を発表しました。
まず、この二曲の相違点について、考えてみます。


検索をかけてみると、以下のような考え方に巡り合いました。

sign」とは、これから読み取るもの、二人の関係を深めていくための手がかりでした。そうして二人での関係を重ねていった結果、そこに出来上がったものが「しるし」なのですね。

      『現代ポップス考。』(http://j-pop.kget.ne.jp/article/4662.html)より


的を射た意見だと思います。『sign』においては、「新芽みたいな思い」「でもいつかは裸になり 甘い体温に触れて」など、この先わかりあっていこうという思いの萌芽として「記号」が扱われているのに対し、『しるし』においては、しっかりと同じ時間を過ごしてきた2人が思いを確認するものとして「記号」が扱われている、という主張です。

もちろんこの意見が間違いだと言うつもりは毛頭ありませんが、僕は少し違った主張をしたいと思います。


『しるし』の解釈は、僕も上述の意見に賛成です。また引用しちゃいますけど…。

でも、「いろんな角度から」「真面目に向き合って」時間を積み上げた果てに、不完全ながらもしっかりと気持ちを伝え合ってきた果てに、二人の間には確かな「絆」が出来上がっていたのです。…それはもしかすると、完全に気持ちを伝え合えることよりも、ずっとずっと素晴らしいことなのかもしれません。


「君と僕とのしるし」は、「不安定な」「思い」である、と明言しています。この楽曲は、二人しか通用しない「記号」を創出することが「恋愛」の一形態であるという主張を、「恋愛」というコンテクストに特化して語ったものだといえます。



対して、『sign』はもっと広いテーマを扱った楽曲だと考えています。大風呂敷を広げるなら、この楽曲は、「記号の危機」を述べた楽曲だとは言えないでしょうか。


桜井氏は、「記号」の一例として「音符(おもい)」と「言葉」を挙げ、それを使って「人恋しさを積み木みたいに乗せていく」行程が「恋愛」だと述べています。しかしその中で、「僕」には「サイン」を「何一つ 見逃さない」とする焦りが生じています。これが何に起因するかというと、本文でも述べられている「時間」です。

「君」という存在が、僕に「時間の美しさと残酷さ」を知らしめることになります。「君」という存在から送られる「サイン」は、「記号」が共時的なものであるのはもちろん、通時的なものですらあることを「僕」は理解します。


「残された時間が僕らにはあるから」、その残された時間で「サイン」を読み解いていこうと「僕」は考えます。2番で「めぐり合った全てのものから送られるサイン」として、「サイン」が発される対象が広がっているのは、「記号」を読み解いていこうという意識が、全人類的なものへ、恋愛というコンテクスト以外のところへいくことの表れでもあります。



桜井氏のこうした「記号」の捉え方に後押しされて、次回からは恋愛以外の社会的事象をテーマにしたミスチルの歌詞を考えていきたいと思います。そうです、ようやくこれからが本題なんです(笑)