どうも、両津です。


だいぶ間が空いてしまいましたが、ミスチル記号論の第二回目です。
今回はまず、記号論とは何であるのかについて簡単に説明します。


といっても、特に小難しい本や大学の講義を受けたわけではないので、あまり多くを語れるわけではないのです。僕の記号論に対する説明は、予備校で受けた現代文の授業の影響が強いことをあらかじめ断っておきます。彼は本当にすごい人だった。

記号論というと、ソシュールとパースという人が二大巨匠なのですが、特に後者が定義した「記号論」が僕の言いたいことを表してくれていると思います。パースは、記号論を「人間と宇宙のあらゆる現象を記号のプロセスとして捉える」考え方だとしています。
難しく言い出すと止まらなくなってしまうのですが、つまるところ、人間の行為は記号として認知することが可能だということです。なぜこの雑誌にはこんな見出しがついてるのか、あいつがなぜあんな表情をしているのか、その行為の「意味」は、「記号」を解釈することで理解できるとするのが「記号論」の骨子です。

これを、テキスト解釈に応用します。たとえば、「water」という語を考えてみてください。英語圏の人は、この一語で「あの液体」を総称しますが、われわれ日本人は、「あの液体」を、「温度」という尺度をもってして「水」と「湯」に分類します。これは、その分類に意味があるから「水」と「湯」が差異化されているわけです。これを深く考えてみれば、日本に温泉という文化があったから、温かい「水」が意味をもったのだと考えられるかもしれません。
もっと単純な例で言えば、われわれ日本人は、空から降ってくるものを「雨」「雪」「霰」「雹」などのように区別しますが、空から液体が滅多に降ってこない地域に住んでいる人にはこの差異化は何の意味もありません。全部「水」でいいわけです。
このように、その言葉を使うからには、その言葉を使う「意味」があり、さらにはその言葉を使う「文化的事情」があるのです。それを、ミスチルの歌詞を使って読み解いてみようというのが本稿の目的です。
最後に、記号論の本とは全く関係ありませんが、僕がやりたいと思っていることを端的に表した文章があったので、引用しておきます。

私たちは…、両者[物語と現実]の間に想像力の環境とメディアの環境を挟み込み、その中間項によって物語の構造がどのように変化するか検証する、環境分析的読解を目指している。環境分析とは、…、作家が言いたかったこと…を「解釈」するのではなく、作品を一度作家の意図から切り離した上で、…作家にその作品をそのように作らせ、そのように語らせることになった、その無意識の力学を「分析」する読解方法である。

   『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』(東浩紀)より

ということで、本編の内容とは全然関係のないところで字数を食われてしまっているわけですが、今度こそミスチルの歌詞へと当たっていこうと思います。
最初は、「男と女の差異化」というものに焦点を当てて、ミスチルのラブソングを取り上げていきます。

例えば次の詞です。

僕はつい 見えもしないものに 頼って逃げる
君はすぐ 形で示して ほしいとごねる

      ――『NOT FOUND』


根拠は何もないんですが、恋愛をする男女は、このフレーズに共感する人が多いのではないのかな、と勝手ながらに思ってしまいます。僕は、ミスチルのラブソングの構造がこの一節に集約されているのではないだろうか、と思っているのですが、それはまた次回にしましょう。結論から言ってしまえば、「男/女」の差異化を強調することが、彼の考える「恋愛」であるということです。

ではでは、今度はいつになることやらw