どうも、両津です。間が開きました。

前回のような混沌とした、あまり大衆受けのしないテーマはしばらく封印して、今回はおよそ3週間、7〜8回分程度を費やして「Mr.Children」の歌詞について考えてみたいと思います。



まず、第一回として、なぜこのテーマを取り上げるのかを簡潔に述べたいと思います。


今回の論考で主眼とするのは、ミスチル記号論の関係を解き明かすことではありません。そもそも記号論って何? みたいな話もあまりしないと思いますし、ぶっちゃけ僕本人もよくわかっていません。
今回は、「ミスチルの歌詞」が何を示しているのか、ということについて、実際に彼らが発表した歌をひとつずつ吟味していく形で突き詰めていきます。

それは、今のこの国において、彼らの価値観が「パラダイム」と化していると僕が考えているからです。



10年以上もの間、彼らはCDを出すたびにオリコンの上位(その大半が1位)をマークし、カラオケに行けば一人くらいは必ずミスチルの歌を得意とする友達が現れ、その場の注目をさらっていくのです。


それほどまでに人々の支持を得られるのは、ミスチルというアーティストが相応の実力を持っているからだとも思います。楽曲の素晴らしさという観点では僕の力ではあまり多くのことを語ることができないので、彼ら(桜井和寿)がその楽曲に乗せる歌詞をメインに、その素晴らしさを語るフリをして、ミスチルが規定している価値を再考しようというのが今回の目的です。

とはいえ、僕もミスチルを系譜学的に語るほど彼らのことをよく知りませんので、前置きはこれくらいにして、具体的に考えていこうと思います。



ミスチルのどの楽曲・どの部分が好きか、は人それぞれだと思います。彼らは、ベタベタのラブバラードから、メッセージ性の強い社会批判までを歌詞の中に取り入れ、その多様性ゆえに多くの人々を魅了します。

最初にその「メッセージ性」というものに主眼が置かれた詞は、「innocent world」であろうと思います。


近頃じゃ 夕食の 話題でさえ 仕事に汚染(よご)されていて
さまざまな角度から 物事を見ていたら 自分さえ見失ってた


ちょっとマイナーな部分ですが、この部分は彼らを理解する上では非常に重要な箇所だと考えています。


この歌詞は、善悪二元論から解き放たれ、多様な価値の中で生きるポストモダンの人間(「僕ら」)に対し批判を浴びせかけています。
これは、彼らのバンド名が「Mr.Children」であることからも重要な示唆を与える箇所になっています。



いきなり私事になり恐縮なんですが、僕の母親の話です。彼女は割とミスチルが好きなんですが、ボーカルの桜井さんに対してはあまりいい印象を持っていません。その理由は以下の通りです。

彼は、「子ども」の心を持ったまま、大人になってん。だから「Mr.Children」。
だからあれだけ真っ直ぐな詞が書けるし、だから下積み時代を支えた奥さんとあんなに簡単に別れたりできる。


彼の結婚歴についてはをウィキペディアなどを参照してください。
別に彼のプライベートをどうこう言うつもりは全くありませんが、ミスチルが「子どもの心」のまま歌詞を書いているのだとしたら、僕らが彼らの歌詞に魅了される理由もわかるような気がしますよね。


次回からは、「記号論」について少しだけ触れた後、ミスチルの歌詞に見られる男女という記号を考えてみたいと思います。