ロスタイムです。
今度こそ、鳥の詩教育論に根ざした具体策を提案します。


前回までは、さまざまな時代の人々の意見を参照しながら、「教育」って何やねん、みたいなことを考えていきました。その中で、「鳥の詩教育論」というものを提唱し、大人が「子ども」として生きた記憶の蓄積を出力するという形の「教育」を考えていきました。

さらに論点を明確にするために、「いじめ」という問題を「客観的」に取り上げ、昨今言われている「いじめ問題」の問題解決の具体策を考えているところでした。



僕の意見は、「いじめ」が「いじめ」として受け止められないような教育の場を構築する努力を怠ってはならない、というものです。


少し考えればわかることですが、教育という「制度」は、それが制度として確立されればされるほど、教育を与えられる子どもたちに対しuniformityを強要するものになります。とりあえず子どもたちに制服を着せてみたり、ドレスコードを設定してみたり、その例を挙げればキリがありません。

その中で、「個性を重視した」教育を! なんてスローガンがはびこるわけですが、「制度」としての問題と、教育を享受・教授する側の意識の問題を混同されると、子どもたちとしては混乱するばかりです。「個性を発揮せよ」というメッセージは、「没個性的な受験戦争に打ち勝て」という教育の「目的(と目されるもの)」と相容れるものではありません。


この「個性の発揮」というのがまた最強に難しいことだと思います。この論考では、「個性をいかんなく発揮」した後にあるものが「いじめ」であると規定しましたが、共同体からの逃走を許されない学校という場において、「自分らしさ」を出すのは多くのリスクを伴うことでもあるのです。「いじめ」る対象を見つける、ということは、共同体構成員にとって共通の攻撃対象を措定して共同体秩序を守るということと同義ですから、「いじめ」という現象は、大人がどれだけ頭をひねっても無くなるものではないはずです。それこそ、「いじめ」は学校教育の中で構造的に起きているのです。(鳥の詩教育論1)


僕の考える「いじめがいじめとして受け取れられないような教育の場の構築」というのは、大層な意見ではありません。単純化して言ってしまえば、「いじめられっこ」を「いじられキャラ」として捉えられないだろうか、ということです。
……たぶんこんな発想は、自分が「大人」でもなく、「子ども」でもない立場に立っているからこそできる、甘い幻想に囚われたものなのかもしれません。


決して、「いじめ」を看過してよいということではありません。「いじめ」という問題に向き合うときに、誰が「いじめっこ」で誰が「いじめられっこ」なのかを峻別するのではなく、その「いじめ」がなぜ起こったのかを、共同体全体の環境に照らして考えてみてはどうか、という提言です。



鳥の詩」の歌詞解釈からどんどん離れていくので、このあたりで筆を擱くことにしますが、この「鳥の詩」は教育のあり方を再考するよい契機になると僕は信じています。結局「よい」教育なんていうゴールはいつまでたってもたどり着けないところにあるので、僕らができるのは「よりよい」教育システムのあり方を目指し、自らの教育への志向に対して常に懐疑的な姿勢をもつことくらいですからね(笑)


最後に、現代の哲学者デューイの引用を記して、終幕とさせていただきます。

こどもが太陽となり、その周囲を教育の諸々のいとなみが回転する。


挨拶代わりのジャブのはずが、少し長いものになってしまって、ちょっと後悔してるのですが、こんな感じでしばらく続けていこうと思います。
次回は「ミスチル記号論」というテーマで、ミスチルの歌詞にみられる世界観を述べていこうと思います。


今回は「教育」というテーマを扱う関係から、何冊かの書物を参考にさせてもらいましたが、僕自身はこういうのがあまり好きではありません。本読むの嫌いなんですw
次回からはもっとねちっこく、根拠とする文献を分析していこうと思います。