最終回は、「鳥の詩でいじめをなくそう」という「目標」の達成に向けた具体案を述べていきます。むしろ、「いじめをなくそう」という「目標」を再考します。



まずルネサンス期のヒューマニストであるエラスムスが、「学校」とは何であるかを記した文章から。

それ[学校]は、学校とよぶよりもむしろ牢獄とよぶにふさわしい。そこには、笞と棒で殴る音がなりひびき、そこから悲鳴とすすり泣きと、そして恐ろしい威喝の声以外の何ものも聞こえてこない。そんなところで子どもたちは学問を憎悪すること以外の何を学ぶであろうか。


           ――エラスムス『幼児教育論』より


うへぁ、そんなバカなwww
エラスムスのこの主張はあまりにも戯画化しすぎの感もありますが、とにかく彼は学校教育を批判したかったのでしょう。相手の人格を認めた教育を、というのが彼の願いだったのです。


ルネサンス以後、「近代教育」という形で教育のあり方が問われていきます。しかしその中では、「子ども」は「小さな大人」であるという意識が強く、「子供」と「大人」が全く違う一個の有機的生命体であるという認識は浅い次元に留まっていたと推察できます。*1



近代以後、各国で教育が制度として整備される時代がようやく到来しましたが、その制度を「当たり前のように」享受する現代においては、「教育」をいかなるものとして考えればいいのでしょうか。

「教育」は今、機能システムとして社会の中に組み込まれています。このシステムが成立する以前は、共同体への「組み入れ」と「排除」(Inklusion und Exklusion)は、目に見える形で行われていました。しかし、システム成立以後、共同体からの「排除」は、共同体を脱すればなされるといった単純なものではなくなりました。


そのシステムに所属したまま、「排除」されるという事態が発生します。

これが現代社会の中で、「いじめ」と表現される状況です。


学校というシステムからは逃れることができず、仲間外れにされても、不登校になっても、「子ども」は教育を受ける権利があるという名目のもとで、「子ども」としてのアイデンティティを付与されてしまう。



システムから逃れるために、僕らは自由に「飛ぶ」ことを夢見た。
「飛行機雲」を「追いかけて」、「願いだけ秘めて」、自由に飛べる「鳥」を羨んだ。

しかし、僕らは年齢を重ねて、さまざまなことを知っていくうちに、
多くのものを失い、ひとつの結論に到達した。
「鳥」には、自由に飛び回る「義務」が付与されていた、という事実。

僕らには、生まれたときから、重力に従って、
地面の上で生きていかなければならない義務があるという事実。

「飛べない鳥」に、翼なんて必要なのだろうか。
そんな疑念を抱くうちに、ついには自分に「翼」があったことすら忘れてしまった。

僕らは、「鳥」を見て、こう言う。
「君たち、誰かをいじめたらいけないよ。」

システムからの逸脱を拒まれた「鳥」は、こう考えるだろう。
「じゃあ僕らは、どうすれば『僕ら』なの?」



社会性を身につけることを念頭に置いた「学校制度」の中で、「いじめをなくそう」なんて大義名分を掲げることが無意味なのだと僕は考えます。いじめ? そんなものがなくなるわけがない。「共同体内で多様性を認める」ことと、「共同体内で異分子が存在する」ことは、同義だと思いませんか?



あかん、しょーもないポエム書いてたら字数が埋まってきたおwww
次回のロスタイムでは、僕の考えをメインに、先人が考えた教育のあり方を紹介して、今度こそ終わります。

*1:「子供は大人とは違う生命体」という要素を強く前面に押し出して、「子供」が形作る世界観をためらいなく表現した作品には、『魔法陣グルグル』というものがありますが、ここでは名前を出すだけに留めておきます。「教育」というよりは、「子ども観」というテーマで取り扱いたい作品です。