前回は、「教育」というテーマを扱うきっかけみたいなものをつらつらと語りましたが、第一回の本編として、Airの「鳥の詩」が何を伝えたかったのかを述べておきます。


そこで、ここに『エミール』という書物を取り上げてみたいのです。


ピアジェの説が批判されている現代において、何をいまさらルソーなのかと思うかもしれませんが、この書物には現代に通じるものがあるのではないかなぁ、と思っているのです。


みなさんも、ルソーと「対決」してみませんか?



彼は、教育書を著しておきながら、現実では父親として無責任な行動を取ったという話もあります。そして『エミール』は、学校教育の問題点を突いた書物というよりはむしろ、家庭内の教育に的を絞った言説が綴られているので、この議論において『エミール』は意味をなさないのかもしれません。

しかし、こういった書物に文字情報として書かれた内容は、読み手がどのように意味を見いだすかでその価値が決まるものだと僕は信じています。こういった考えから、一般に『エミール』の概略として用いられる「消極教育」「第二の誕生」などのテクニカル・タームは用いず、「何が書いてあるか」を(日本語訳ではありますが)突き詰めて考えていきたいと思います。*1



前置き長い? まぁそろそろ行きますよw

まず、よく知られている第一編の冒頭の部分から。

 

万物を造る神の手から出るときにはすべては善いが、人間の手に渡ると全てが堕落する。


「自然に還れ」みたいなフレーズがここに出てきますが、彼の最も言いたいことはここにあるようです。この内容が、形を変え、例示を混ぜつつ語られているような気がします。

 

いっさいをこの[自然の]本源的な性向に向かって引き戻す必要があるだろう。


そして彼は、「教育」というものの意味を次のように説明しています。
 

われわれは生まれたままでは弱い。・・・われわれが生まれたときには持っておらず、成長して必要とするものは全て教育によって与えられる。

さらに彼は、自分の論を述べる際に、「不確実な未来の為に現在を犠牲にする教育」(第二篇)という表現を用いて、「教育」というものが一体何であるかを読者に語りかけています。

『エミール』を取り上げたのは、ルソーの語る教育観が、「鳥の詩」で描かれる世界観とオーバーラップしているからです。彼は、序文の中で「人々は幼少年期というものを少しも知らない」と述べ、「はるか遠い昔から、ただ既成の教育に反対する叫びが上がるだけで、誰もいっそうよい教育の提案は思いつかずにいることを指摘しておきたい」として、「大人」である人々が「教育」を考えることの困難さ、極言すればその「矛盾」を明らかにしています。



ルソー以後も、「教育」というものに対し、「大人」が議論を重ねる時代が続きました。
ハンナ=アーレントという政治哲学者は、学校を、公共的能力を獲得していない子供が公共的資質を身につける場として位置づけています。彼女の言葉を借りると、こうなります。

 

学校はそもそも家族から世界への意向を可能にするために、われわれが家庭の私的領域と世界との間に挿入した制度である。


彼女は、学校は公共圏だと述べています。しかしどうしても僕の感覚でいけば、「教育」という制度によって学校というシステムに組み込まれた「子供」は、「閉鎖空間」の中に押しとどめられているような気がしてなりません。

あまり難しいことはわからないんですが、最終回はこのシステム化した「教育」とは何かに触れて、最初の回に提起した問題にコメントを付すことで終幕とさせてもらおうかなと思っています。



参考文献
1966 ルソー 平岡昇訳 『エミール』 河出書房
2006 中谷 彪・小林靖子・野口祐子 『西洋教育思想小史』 晃洋書房
2003 石戸 教嗣 『教育現象のシステム論』 勁草書房

*1:後半部分は今回のテーマとは少し外れる内容が多かったので今回は『エミール』の前半部分ばかりを取り上げたのですが、興味のある方は読んでみてください。ホントは僕がちゃんと読んでないからなんですけどねw