初めまして、ryo_zと言います。仲間内からは両津なんて呼ばれています。
このHPの名称が最強にダサイですが、別にどうでもいいんですwww


いきなりですが、「鳥の詩」でいじめを無くそう、という大それた企画をやってみます。

そもそも、「いじめをなくす」って言い方がナンセンスなんですが、それはまた後ほど。


この曲はJASRAC登録曲ではないので、歌詞の前半部分を書き出しておきます。第一回ということで、この詞が使われている「Air」という作品の内容には一切立ち入らず、この詞だけを対象に話をさせてもらおうと思います。

消える飛行機雲 僕たちは見送った
眩しくて逃げた いつだって弱くて あの日から 変わらず いつまでも変わらずに
いられなかったこと 悔しくて指を離す

あの鳥はまだ うまく飛べないけど いつかは風を切って知る
届かない場所が まだ遠くにある 願いだけ秘めて見つめてる
子供たちは 夏の線路歩く 吹く風に 素足をさらして
遠くには 幼かった日々を 両手には 飛び立つ希望を

消える飛行機雲 追いかけて追いかけて
この丘を越えた あの日から 変わらず いつまでも
真っ直ぐに僕たちはあるように 海神(わたつみ)のような強さを守れるよ きっと


この詞が、「教育」というテーマに結びつく理由は2つあります。

1、「消える飛行機雲」を「僕たち」が「見送る」という構図です。
そもそもこの詞は、この詞が使われた作品の特性上、「大人」を対象に書かれています。その「大人」が「飛行機雲」を見送るというメタファーは、「子供の成長を見守る大人」という構図にそっくりです。Air本編のテーマにも関わることです。


2、この詞が使われた「Air」という作品に描かれた、驚くほどの閉鎖性です。
本編をご存知でない方には申し訳ないのですが、この作品は「人里離れた村」を舞台とし、男性1人、女性3人+αという狭い世界でのみ展開されます。この意図的に世界を狭くする試みは、社会の縮図である閉鎖空間、「学校」に子供を「閉じ込める」行為に酷似しています。


以上の理由からこの詞は、「教育」というテーマが(無意識的に)設定されていると解釈しています。もちろん他の解釈もありますが、それはAir本編と絡めるときに・・・。


しかし、ここに疑問点が生じます。
「雲」や「鳥」が「子供」の形容だとすれば、なぜ「大人」は「子供」を見上げる立場にいなくてはならないのでしょうか。


この詞が、現代教育への警告となる理由はこの点にあります。
なぜ「大人」は、「子供」を見上げることができないのか。
「飛ぶ」ことを諦めた「大人」は、自由という「不自由」を課せられた「子供」にいかなる感情を抱いているのか。


羨望? 侮蔑? 無知であることへのあざけり?



「まぶしくて逃げた」。
「大人」は、いつまでも「子供」で生きることを諦めたのだ。




なぜ「大人」は、自分も昔は「鳥」であったことを忘れてしまうのだろう。



かつて生えていた、いや、今も生えているはずの「羽」。
それは自由を得る「ため」の、他と交わる手段に過ぎなかったのだろうか?




現代思想』という雑誌に、以下のような文章が掲載されていました。

いじめは構造的に起きている。教育再生会議は、その構造自体を無視しており、その弊害に本気で取り組むつもりがまったくないので、厳罰や道徳教育などでお茶を濁しているのだ。「社会総がかりで」という大仰な表現が、逆にその空疎な中身を示している。

               ――『現代思想』4月号 小沢牧子氏の文章より


僕はこの文章、的を射たものだと思うんです。「教育」という「制度」が、何を目指して進んでいるのか、その見直しの契機となるような文章が書けたら幸いです。

最後に確認しておくべきことは、制度としての「教育」は大人側が設定するのであって、子供主体で行われる「学習」とは区別すべきだということです。「子供中心の教育を!」とか言ってたら、教育の問題は堂々巡りになります。そんなものはキレイゴトです(笑)


たぶんあと2回で終わります。初回ですから(笑)



参考文献・資料
2007 『現代思想』4月号  青土社
佐伯 胖・汐見 稔幸・佐藤 学 1992 『学校の再生をめざして』 東京大学出版会
Key 2000 「Air