2 『グルグル』における敵と味方

『グルグル』が乗り越えてしまった、「ドラクエ的世界観」についての話でした。
前回は、メタドラクエ的なギャグ、レベルとお金の概念について触れましたが、今回は内容に関わるようなお話です。


一般に、RPG含むゲームは、「敵」と「味方」が存在します。主人公はある「正義」を振りかざすことで、プレイヤーに共感を抱かせ、「敵」を倒すという目的を正当化します。

しかし、ちょっと込み入った作品になると、この前提を問い直すメタRPG的な価値観が登場することになります。
ファイナルファンタジーの世界は、ドラクエよりは少し複雑な世界観を使ってストーリーを展開しますが、第8作目の主人公スコールは、以下のような自問自答で自らの行動を客観視します。

「戦ってるやつは、みんな自分が『正義』だと思ってる」


同様に、テイルズシリーズでは、作品のほとんどに「裏切り者」が登場します。デスティニーのリオン、ヴェスペリアのレイヴンなんかが思いつきますが、他にもいるのでしょうか。この「裏切り者」の存在は、「味方」「敵」といった区分はRPG内での一時的な区分に過ぎないということを教えてくれます。
魔法陣グルグル』でも、同様の方法で「敵」「味方」という二元論的な解釈を脱構築しようと試みています。


しかし、『グルグル』が取る方法は、「かつての「敵」が「味方」になる」とかそういった「敵」と「味方」を完全に分離するものではありません。「敵」「味方」という両極を分離することからも脱却しているのです。明らかな「敵」が面白おかしく振る舞ったり、「味方」が「敵」に馴れ馴れしくスキンシップしたりするなど、「敵」「味方」という両者が緩やかな繋がりを持っているのです。
極めつけは、明らかな「敵」が、「味方」を倒すことを目的としていなかったという点です。これは、「カヤ」という「敵」の魔法使いのことを指しているのですが、これは「大人」「子ども」の議論に関わる重要な部分なので後述したいと思います。


以上、『魔法陣グルグル』の紹介を兼ねて、作品の世界観と前提を説明しました。
次回よりいよいよ本編ですが、作品で必ず話題にされる「画風の変化」に触れることから始めたいと思います。

画像は、ねたミシュランhttp://netamichelin.blog68.fc2.com/blog-entry-4124.htmlより転載

これは、単行本コミックスの表紙の絵を並べていったものです。ご覧の通り、(手で描いてるかMacのソフトで描いてるかの違いはあれ)全然違うわけです。
その理由や背景などについて触れたいと思います。