最終回は、全体のまとめを兼ねて、『有心論』から読み取れる僕なりの結論を記しておきます。


結局、この歌詞を読んだところで「心は存在しない」という結論に変わりはないのですが、「人間の心」って、刺激(S)と反応(R)の関係の観察だけでは捉えられない部分があるんですよね。それは言われてみれば当然のことなのかもしれませんが、もういない「君」を「僕の心」と同一視することで、「科学」では捉えきれない人間の機微を表現しているのかもしれません。妄想を恐れず言えば、「君」がinvisibleになってしまった「別の現実」を生きることを決意しているとも読み取れますよね。そして、「僕」の「別の現実」が指す内容は、「心は実在として存在しない現実」、つまり、この歌詞の読者である僕たちが生きている現実と同じなのです。

もう一つ言及しておくべきは、「息を止める」ことにより、「心」が現れてくるという逆説です。「人間の死」が近づくことにより、人間の本質である「心」が現れてくるというのは、養老孟司の「唯脳論」にすら絡んでくる問題でしょう。*1
この詞によって、さまざまな価値観に批判を加える野田洋次郎は、悔しいけど「時代の寵児」と呼んでよいスゴい人だと思います。

かなり込み入った話をしてしまいましたが、みなさんはこの『有心論』についてどのような意見をお持ちでしょうか。もう少しロマンチックに、「僕」の人を愛する気持ちを教えてくれた「君」への熱烈なまでの愛が、「神」への敬虔な宗教心と重ね合わせられているという読み方も可能だと思います。


第一回でお話ししたように、歌詞は読む人によってさまざまな解釈があってよいと思います。僕の読みはこの6回でお話ししてきたことなのですが、反発して頂いても結構ですw

ただ重要なことは、野田洋次郎がこの歌詞たちを、自分が恋人に充てるためのプライベートなラブレターにとどめたのではなく、一般に広く公表したという事実は、念頭に置いておくべきことなんだろうと感じます。一人の人間の素直な思いを前にしては、「科学」なんて大それた大義名分は、全てかたちだけのものに成り下がってしまうのかもしれませんね。

僕はこの文章の中で何度か、野田氏は「これを狙って書いた」という表現を使いました。僕の解釈があってるかどうかは別にして、作詞者が歌詞を書く際にいちいち、「このフレーズを使うのはこういう意味があるからで、だからこの言葉を使う以外はありえない」という論理的なステップを踏んでいるわけはないんですよね。推敲を繰り返しながら、「無意識のうち」に言葉を紡いでいく。
この「無意識」の中に、論理的なステップが埋め込まれているのだと僕は考えます。自らの生きてきた記憶から、「ここで使うべき言葉はこれでなくてはならない」というひらめきが瞬時のうちに起こり、言葉は紡がれていく。だからそれを解読する際は、ある程度の論理的(科学的)な方法論が必要なのではないかなと思います。

今回は以上です。
次回からは「子ども」について、『魔法陣グルグル』というマンガを取り扱いながら論じたいと思っています。

*1:人間の死を「心臓死」と定義するか、「脳死」と定義するか。何か生命倫理の話にもなってきた。